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『夜中に犬に起きた奇妙な事件』マーク・ハッドン(早川書房)

夜中に犬に起きた奇妙な事件

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読んで学ぶ自閉症

 昨年、アメリカの精神科診断基準DSMが19年ぶりに改訂され、自閉症スペクトラム障害(Autistic Spectrum Disorder: ASD)という新たな診断基準が登場した。アスペルガーの呼称も抹殺され、あれだけ世間を騒がせた(広範性)発達障害も消去された。スペクトラムという怪しい概念が、診断基準に堂々と登場したことも新奇な現象で、未来の生物学的仕分けを念頭に、納戸がリフォームされたようなものだ。精神科の診断学は、生まれつき?性格?環境?病気?といった輻湊する境界線のもつれを相手に奮闘してきた歴史であって、DSMもその途上の道の駅にすぎない。

 途上とはいえ、自閉症は1943年に記載されてから、その名称を保持したまま今日にいたる。その典型的特徴は、映画『レインマン』(1988)のダスティン・ホフマンの演技に見ることができて、自閉症を知ってもらうために、学生に推薦する定番となっている。『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』(2011)の少年も自閉症ではあるが、教材としては難しい。『アイ・アム・サム』(2001)のショーン・ペン演じる障害とダスティン・ホフマンとの差異を感じ取ってもらうのも、鑑別による自閉症理解に繋がる。自伝をもとに作成されたテレビ映画『テンプル・グランディン~自閉症とともに』(2010)もサブ教材になりうる。1950年代のアメリカで、自閉症がどのように理解されていたのか、という時代背景も窺うことができる。

 典型例を知ることのない教育関係者や医療・看護・福祉学生にとって、良くできた映画は優れた教材となる。特に、自閉症のようにコミュニケーションに障害のある状態は、ドラマの対人関係を通じて感知する方が、講義を聴くよりも理解しやすい。

 一層の理解を深めるには、勿論、書籍は役に立つ。近年は、当事者による著作・啓蒙活動も少なくない。ドナ・ウィリアムズの『自閉症だったわたしへ』は最早古典かもしれないが、綿密な描写には迫力がある。上記のグランディンにいたっては、自閉症者のための就活を助ける執筆もある。輸入品ばかりではない。書評空間でも、斉藤環が『発達障害当事者研究―ゆっくりていねいにつながりたい』を紹介している。絵本作家としても活躍している東田直樹の自伝も評判が良く、英語版となって輸出されている。過去10年余りで急増した専門家による啓蒙書には限りがない。どこから手をつけようと途方に暮れる読者もいることだろう。

 そこで是非ともお薦めしたいのが、『夜中に犬に起こった奇妙な事件』だ。自閉症をめぐる幾多の出版物のなかでも、異例の傑作といえる。ミステリーとも探偵小説とも呼ばれているようだが、わたしは冒険小説と呼ぶ。

 15歳の少年で障害学級に通うクリストファーは、偶然に遭遇した事件をきっかけに、犬を殺した犯人を探す決心をする。シャーロック・ホームズがお気に入りのクリストファーが綴る探偵日記が、『夜中に犬に起こった奇妙な事件』というわけだ。日記という体裁は、少年の思考プロセスを覗くのに、すこぶる都合がよい。クリストファーの視点から世界を眺めると、こうなるわけかとの合点は、映画では得がたい学習だ。折々に挿入されるイラストは、自閉症者がいかに視覚で思考するかという特徴を示す格好のサンプルとなっている。どうしてパニックになるのか、パニックになった時はどうしているのか、どんな予防策が講じられるのか、などの貴重な情報が満載だ。自閉症の特徴は、この一冊に網羅されている。

 本書が出版された2003年、自閉症の世界を理解するための必読書である、と児童精神療法の教師陣が絶賛していたのを今でも覚えている。“The Curious Incident of the Dog in the Night-Time”というギクシャクとしたタイトルが、どうしても頭に馴染まなかった。硬くまどろっこしい題名は、まさに自閉症者の思考回路を体現していて、直訳された日本語でも同じ気配を味わってもらえると思う。ちなみに、日本での翻訳出版も2003年というのだから、早川書房のアンテナとスピード感には驚かされる。もっとも、2004年には産経児童出版文化賞を受賞し、2007年には新装版が出たはずなのに、早川書房のサイトには旧版しかないのが懸念材料ではある。児童向けミステリーとの看板を下げて、自閉症理解のための参考書という効用をもっと発信してもらいたい。

 翻訳は超ベテランの小尾芙佐さんの手によるが、日本語という否が応でも情緒がこびりついて離れない言語で、自閉症者のメカニカルな雰囲気を出すのは簡単ではなかったろうと偲ばれる。最近は洋書も手頃な値段で入手できるので、興味のある方は読み比べてみて欲しい。ペーパーバック版が何種類が流通している。


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