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『ベンジャミン・ブリテン』デイヴィッド・マシューズ/中村ひろ子訳(春秋社)

ベンジャミン・ブリテン

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ブリテンと無垢の世界」

 2013年が、英国の作曲家、ベンジャミン・ブリテンの記念の年(生誕100周年)であったことは記憶に新しい。それを記念して、彼がかつて契約していた Decca レーベルを所有するUniversal は自作自演を中心とする、シリアル・ナンバー付の全集を発売した。Universal はほぼ同時期に、指揮者およびピアニストとしてのブリテンの全集も発売している。こちらはパーセルからショスタコーヴィッチまで彼の優れた演奏が楽しめる構成になっている。もちろんブリテンの記念年を祝ったのは Universal だけではない。Signum Classics など英国系のマイナー・レーベルからも例年になく多くのアルバムが発売された。

 というわけで、長年にわたるブリテン愛好家としては、書籍においてもブリテンの評伝もしくは作品論を待望していたのだが、一向にその気配がないまま12月を迎えた。そんなおり、記念年になんとか間に合わせて年末に発売されたのが本書である。訳者によれば、また筆者の記憶でも、これまでブリテンにかんする本は、日本では翻訳書も含めて一冊も刊行されたことがなかった。英国音楽のガイドブックや英国音楽を特集した音楽雑誌をとおして部分的にブリテンが紹介されることはあったが、いずれもCDのライナーノーツを超えるものではなかった。本書は決して大部のものではなく、また、最新の研究成果が反映されているわけでもないが、ブリテンとその音楽を知るうえで読者の期待に十分に応えるものである。

 著者のデイヴィッド・マシューズは弟のコリンとともに現代イギリスの作曲家としてよく知られた存在である。彼は若い時代に、ブリテン晩年期のアシスタントとして作曲の教えを受けた。あとがきの中で訳者が引用している「尊敬し、深く理解しているが、内輪の仲間ではなかった」と語るマシューズのブリテンにたいする思いは、そのまま本書の読後感につながる。

 彼のブリテンに向かう視線は、どこまでも冷静であり、客観的である。著者自身も作曲家であることから、本書では、ブリテンの思想と楽曲とのかかわりが、楽譜の分析をとおして丁寧に検証される。ブリテンの手紙や日記も適切に引用され、考察の裏付けとしての役割を十分に果たしている。さらにいえば、H. Carpenter の“Benjamin Britten: a Biography”に代表される先行研究の成果もきちんと反映され、ブリテン研究の入門書として本書は申し分ないものである。

 だが、こうしたプロセスを経て浮かび上がってくるのは、ブリテンへの親近感ではなく、作曲家という生き方を選択したブリテンのストイックともいえる人間像である。読了後に、それが具体的にどのような生き方であるかを、おそらく読者は正しく説明することができるだろう。一方、そこで待ち受けているのは、読者であるわれわれが決して踏み込むことのない世界に佇んでいる、外部者としてのブリテンである。ブリテンの音楽はいつでも手が届くところにある。われわれはブリテンの音楽に喜びを覚え、慰められ、夢を見る。しかし、われわれは決してブリテンその人の世界には入れない。

 読者がブリテンと地平を共有できないのは、彼が同性愛者であるからではない。また、彼がこの世では実現不可能なユートピア的な平和主義者だからでもない。こうしたことは彼を受容するうえで、なんの妨げにもならない。読者であるわれわれ(この場合は、著者も含めて)とブリテンとの親密な関係を拒むのは、本書の中でキーワードとして再三にわたり言及される「無垢」と呼ばれる世界の存在である。著者は、生誕100年のための序文の中で次のように述べている。

 「ブリテンは、無垢の世界に留まっていたいという自らの願望を表現するためだけでなく、いかに無垢が経験によって損なわれるかを示すためにも少年の声を用いた。多くの点で、ブリテンは大人の世界に馴染んでいなかった。(中略)ブリテンはまた、この世の悩み苦しみを避けて、眠りの王国に逃れた。(中略)その眠りとは死だが、同時に天国の夢、無敵の美でもあるのだ」

 われわれは確かにブリテンの音楽を美しいと思う。だが、その美しさは、われわれが日常的に経験する美しさとは少しばかり異なる。それは、過去の一時期、記憶のはるか彼方にある幼年期に、運がよければ出会えた美しさ、もしくは人生を終えようとする瞬間に垣間見ることができるような美しさである。われわれはブリテンのように無垢の世界を生きることも、甦らせることもできない。われわれはこの世にあってブリテンの音楽のような媒体をとおしてのみ無垢の世界を感じることができる。

 ブリテンは、われわれと同じ世界の住民であると同時に、無垢の世界の住民でもある。無垢の世界に限らず、通常、もうひとつの世界を生きようとする人間は詩人と呼ばれる。詩人は孤独を生きることができる。だが、ブリテンが選んだのは、詩人ではなく、作曲家という生き方だった。詩人ではないブリテンは、無垢の世界を生きるために特別な助け手を必要とした。ブリテンの生涯のパートナー、テノール歌手のピーター・ピアーズである。無垢の世界でブリテンが安らぎを得るためにはピアーズの庇護が絶対的に不可欠であった。

 本書には、ブリテンを取り囲むさまざまな人物が登場する。オーデンも、ショスタコーヴィッチも、ロストロポーヴィッチも出てくる。だが、巻末の人名索引を見てもわかるようにピアーズにかかわる記述箇所の多さは突出している。ブリテンについて書こうと思えば、結局のところ、ピアーズについて書かないわけにはいかない。本書はブリテンの生涯を忠実に描出した結果、ピアーズの役割と使命を正しく語ることにも成功したのである。

 「ピーター(ピアーズ)はその名のとおりブリテンが残る生涯(アメリカ時代以降の生涯)をとおして拠り所とした巌であり、揺らぐことなくブリテンを支え続けた。(Peterという名の元になった十二使徒の一人ペトロの名はアラム語で岩、石をさす)」(同書72ページ)


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