書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

プロの読み手による書評ブログ

『ヨーゼフ・ラスカと宝塚交響楽団』根岸一美(大阪大学出版会)

ヨーゼフ・ラスカと宝塚交響楽団

→紀伊國屋ウェブストアで購入

 ヨーゼフ・ラスカ(1886-1964)という名前を聞いて、一体どれくらいの人がどんな人物だったか、知っているだろうか。本書(『ヨーゼフ・ラスカと宝塚交響楽団大阪大学出版会、2012年)は、ブルックナー研究家としても知られる根岸一美氏が、偶然出会った音楽家の生涯をひとつずつ掘り起こしていった、ほとんど類書のない評伝である(注1)。

 ラスカは、簡単にいってしまえば、戦前の関西で12年間にわたって音楽教育や指揮者・作曲家として活躍したオーストリア人だが、本書を読むと、日本に来るまでも、日本から離れてからも運命に翻弄される生涯を送ったことがわかる。

 ラスカはブルックナーとのゆかりも深いオーストリアリンツで生まれた。ミュンヘン音楽院に学んだあと、市立劇場の練習用ピアニストとして修業を積み、やがてリンツ州立劇場の指揮者やプラハの新ドイツ劇場の副指揮者(首席指揮者はツェムリンスキー)もつとめるようになるが、第一次世界大戦の勃発が彼の音楽家としての人生を狂わすことになった。オーストリア軍の陸軍予備少尉としてロシア前線に送られるものの、ほどなくロシア軍の捕虜となり、終戦まで幾つもの収容所を移動させられた。だが、戦争が終わっても捕虜はすぐには解放されなかったらしく、1919年7月までイルクーツク、さらにその年のうちにウラジオストクに移動させられた。この辺の事情は資料不足で詳細にはわからないようだが、少なくともラスカの妻エレンの手記「音楽のために生きた人生! 少し前に亡くなった私の夫、ヨーゼフ・ラスカの生涯についての覚え書き」(1964年12月)を信じる限り、捕虜でありながらいろいろな音楽活動もしていたという。

 ラスカの人生は、ウラジオストクでの生活にピリオドを打ち、1923年8月、日本の横浜(エレンの手記には「ある大きなオーケストラ団体からの招請により」とあるが、具体的にどの団体であるかはわからない)に向けて旅立つことによって一変する。ところが、9月1日、日本は関東大震災に見舞われたので、最初の目的地であった横浜を避けて、9月3日、敦賀港に到着することになった。最初に宿泊するはずであった横浜のホテル(そこで彼はオーケストラ団体との契約をする予定であった)も壊滅した。ラスカは地震による災害は免れたが、これからどうしてよいのか、途方に暮れた。そのとき、彼に救いの手を差し伸べたのは、ラスカよりも少し前に宝塚少女歌劇団に雇われていたロシア人のバレエマイスター(ルジンスキー)であったという。こうして、ラスカは、ルジンスキーの紹介で宝塚音楽歌劇学校の教授に採用されるのである。

 ラスカの採用は、1923年9月16日付であったが、もちろん、宝塚少女歌劇団のオーケストラとして出発し、のちに宝塚交響楽団に発展していく音楽団体に最初から立派なメンバーが揃っていたわけではない。楽団員は生徒だけでは足りず教師も加わったが、歌劇公演の盛況に伴う多忙と練習不足で、演奏水準は高くはなかったと思われる(注2)。だが、ラスカはめげなかった。著者は、宝塚交響楽団の歴史や演奏プログラムを丹念に調べているが、プログラムはとても意欲的で、なかには、モーツアルトト短調交響曲(第40番)のように、日本初演したものさえある。ベートーヴェンの序曲「コリオラン」、メンデルスゾーンの「真夏の夜の夢」、ワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」中の「夢」、等々に交じってラスカ自身の作曲した作品も含まれている。「こうして1924年の二回のシンフォニー・コンサートを通じて、宝塚少女歌劇のオーケストラは、クラシックの交響楽団としての第一歩を踏み出したのである」と(同書、62ページ)。

 私は前にラスカがブルックナーともゆかりの深いリンツに生まれたと述べたが、実際、ラスカはブルックナーを終生尊敬し、彼の作品の演奏にも情熱を傾けた。交響曲第4番「ロマンティック」のような今日では有名曲ばかりでなく、第1番の本邦初演も手がけている。著者によれば、演奏者は指揮者のほか68名とあるから、ブルックナー交響曲の演奏にしては小規模である。だが、当時の日本におけるブルックナーの認知度を思えば、「演奏者たちは本当によく頑張ったと言うべきであろう」(同書、70ページ)という著者の評価も肯けよう。

 ところが、この演奏会について極めて厳しい批評を書いた人物がいたという。のちにブルックナー演奏の大家となる朝比奈隆(1908-2001)である。本筋とは関係ないのでごく簡単に触れるにとどめるが、朝比奈はそもそも宝塚交響楽団の指導体制に大きな不満をもっていたらしく、そのような感情が厳しい批評の言葉に表れたのではないだろうか(同書、71-74ページ参照)。朝比奈にしても、ブルックナー演奏についての自分独自のスタイルを確立するのはもっと先のことなのだから。

 ブルックナーを敬愛していたラスカは、さらに1935年1月26日、「テ・デウム」の本邦初演も成し遂げている。ラスカの喜びに満ちた姿は、さっそく翌日付でマックス・アウアー(国際ブルックナー協会の創設者)に宛てた手紙の中に表れている。「このすばらしい作品を日本の人々の前で演奏することがついにできて、私がどんなに嬉しく、幸せであったかは、とても言葉では言い表しえません」と(同書、77ページ)。

 ところで、日本におけるラスカの活躍を語るには、宝塚交響楽団の指揮者としてばかりでなく、神戸女学院音楽部の教員(1928年4月に採用)としての仕事にも触れなければならない。彼が教えたのは、「楽式論、合唱、管弦楽、対位法」だったが、ここにもクラシック音楽の演奏者仲間がいたので、Club Concordiaと称する音楽組織をリードし、自作を含めた演奏活動を開始した。さらに、当時神戸市山手通5丁目にあった神戸教会でも、Musica Sacraと称する催しにて新しい演奏会シリーズを開始した(1933年1月28日)。そのときのプログラムには、ラスカの挨拶文が掲載されているが、ラスカの人柄を伝えるためにも、著者の紹介から引用してみよう。

「Musica Sacraという会の名称は教会音楽だけの演奏を意図するものではありません。敬虔な内容のものもあれば一般の作品も取り上げる予定です。とりわけ中世西洋の歌曲や合唱作品に、また人々に親しまれている音楽に重点を置くつもりです。悲しみや差別を取り払ってくれる音楽の力を信じる方々には、ぜひとも私共の演奏会を支えて下さり、ご出席もいただけますよう、一同心よりお願い申し上げます。また神戸教会には会場ならびに楽器をお貸しいただき、厚く御礼申し上げます。」(同書、85-86ページ)

 ラスカは日本での音楽教育や音楽活動を通じて宗教音楽や合唱曲を積極的に取り上げたが、彼が教えた生徒たちの中にも、のちに「合唱の時間が楽しかった」と回想している者が何人かいるようである。皆に愛された教師だったことがうかがえる。

 ところが、まもなく、ラスカはまたもや運命に翻弄される。1935年8月16日、モスクワで開かれる万国音楽大会に日本代表として出席するために敦賀港を出発したにもかかわらず、10月3日、帰国のときに再入国を許されなかったのだ。どうやら「音楽を通じての赤化運動」にかかわっているという嫌疑をかけられたらしい。都合の悪いことに、ラスカ自身が、共産主義者ではないものの、その理想には少なくとも共感はしていたという「状況証拠」もあった。こうして、ラスカは、突然、日本における音楽教育や音楽活動を続ける機会を奪われたのだ。

 オーストリアに帰国はしたものの、一時は絶望のあまりドナウ河に身投げしようとも考えたらしい。しかし、音楽への情熱を断ち切れず、ようやく立ち直った。それでも、時代は彼に厳しかった。ラスカがみずから書いた手記「1942年9月から1945年6月までの私の苦難」によれば、ゲシュタポ(国家秘密警察)に三度も連行され、KDFと呼ばれたドイツ軍慰問音楽隊に強制的に加えられたあと、ユダヤ人への差別を傍観視できない言動の廉でついに収容所送りとなるのである(ラスカ自身はユダヤ人ではない)。シュトラウビングという収容所の中で彼も死を覚悟した。だが、「神はわれらに対し、別のことを望まれた」と手記にある(同書、140ページ)。幸運にも、1945年5月1日、アメリカ軍によって解放されるのだ。

 5月4日、運ばれた病院の看護婦はモラヴィアのオストラウの出身で、ラスカが劇場でカペルマイスターの仕事をしていたことを覚えていた! そして翌日の5日、およそ三年ぶりにシューベルトの楽譜を手に入れた。繰り返すが、「神はわれらに対し、別のことを望まれた」のである。

 ウィーンに帰還したあとのラスカは、遺族によれば、自宅で音楽を教えたり作曲をしたりと比較的静穏な日々を送ったという。だが、著者は、ラスカが戦後に書いた作品のなかに二つの特徴があることを鋭く指摘している。ひとつは、「反ナチ」の延長線上にある「人道主義的、さらには反戦的な傾向」であり、もうひとつは、「オーストリアの風土や人々への愛情を謳った、比較的保守的な傾向」である(同書、145ページ)。

 私がとくに関心があるのは、ひとつは、ラスカが敬愛していた作曲家への思いを、「ブルックナーを偲んで」という五声の合唱曲によって表現したことである(1956年の作曲、出版は2年後の58年)。著者によれば、ブルックナーの作品からの引用らしきものは見当たらないが、「フーガや低音の持続(オルゲルプンクト)の部分、また全体の和声の雰囲気などに、ブルックナーを彷彿とさせるものがある」という(同書、153-154ページ)。

 もうひとつは、日本を思う「七つの俳句」という、ソプラノ、フルート、ピアノのための曲を書いていることである(亡くなる4年前の1960年)。「俳句」といっても「和歌」も含まれるようだが、著者は、ラスカが藤原良房が詠んだ歌「年ふれば よはひはおいぬ しかはあれど 花をしみれば 物思ひもなし」をもとにしてドイツ語の歌詞をつけているところに「日本の昔の詩人たちのロマンティシズムに共感」している姿をみているようである(同書、157ページ)。

 本書には、ラスカが日本の音楽とヨーロッパの音楽を比較考察した興味深いエッセイの日本語訳が収録されている上、付録としてラスカの作品のCDも付いているので、資料的にも価値があると思う。もちろん、戦後の宝塚はクラシック音楽からは離れていったが、宝塚交響楽団が日本のクラシック音楽の演奏史に重要な役割を演じた事実は変わらない。音楽ばかりでなく、西洋の文化の日本への導入や受容に関心のあるひとに一読をすすめたい。

1 ブルックナー研究家としての根岸氏の著作は、『作曲家◎人と作品 ブルックナー』(音楽之友社、2006年)にまとめられている。

2 例えば、東京にはもともと山田耕筰が創設した日本交響楽協会があったが、山田派と近衛秀麿派の対立で分裂したあと、1927年10月、近衛派が「新交響楽団」(NHK交響楽団の前身)を結成した。だが、宝塚交響楽団が新交響楽団のレベルに達していたとは思えない。

→紀伊國屋ウェブストアで購入