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『捨てられるホワイトカラー』バーバラ・エーレンライク(東洋経済新報社)

捨てられるホワイトカラー

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「ホワイトカラー労働者が使い捨てにされても怒らない構造」

 日本でも格差の拡大が本格的にはじまった。では、海の向こう、世界一の資本主義先進国アメリカではどうなっているのか。
 アメリカで成功したビジネスマンの本を読んでも、努力すれば成功できる、というシンプルな物語が多い。そういう本が売れるのだ。類書もよく売れる。前向きなポジティブシンキングで読者を気持ちよくさせる本ばかりだ。いま流行の勉強本もそのパターンである。読書中気持ちよくても、現実のビジネスで人間的な生活ができるくらいの収入がなければならない。超人的努力をし、聖人のような幸運に恵まれた者が成功するのは分かる。私たちの関心事は、普通の努力をした、普通の人間が、どれくらいの収入を稼ぐことができるか、である。

 アメリカほど貧富の格差が大きい先進国はなかったのではないか? 疑問を解消するために、アメリカ本土で活躍するジャーナリストの言説を読むべきだろう。

 本書は、アメリカのコラムニストで社会批評家、バーバラ・エーレンライクの最新作。低賃金の単純労働者として実際に働くという体験取材をもとに、アメリカのブルカラーの労働の実態をレポートした前作『ニッケル・アンド・ダイムド』の著者である。ブルーカラーの次のテーマは、ホワイトカラーの労働現場だった。

「2001年の景気後退を機に、高い資格や経験を積んだ人々の失業が増えてきた。私がこのプロジェクトをスタートさせた2003年後半には、失業者はおよそ5・9パーセントだったが、それ以前に景気が冷え込んでいたときと違って、失業者のうちのかなりの数---ほぼ20パーセント、およそ160万人---がホワイトカラーの専門職にあった人たちだった」

 その160万人のホワイトカラー失業者たちが、いかにして失職し、どのように転職しようと、もがいているのかをレポートしている。バーバラ自身がジャーナリストであることを隠し、企業でPRの職を獲得しようと、さまざまな転職ビジネス関係者と出会いながら取材が進められていく。

 コーチングのプロを雇い、履歴書をブラッシュアップするレクチャーを受ける。面接で好感度をもってもらえるための服装のアドバイスをもらう。同じように転職しようとしている人間との「ネットワーキング」の会合に出席する。

 バーバラは、取材目的とはいえ、この取材のなかで本気で就職をしようと思っていた。そしてひとりのホワイトカラーとして会社の内部でしか見聞できないことをレポートしようとしたのだ。前作、『ニッケル・アンド・ダイムド』で、「全国チェーンのレストランでウエイトレスをし、清掃婦になり、ウォルマートの店員として働いた」のと同じように。しかし、ニーヨークタイムズでコラムを執筆するという卓越したスキルのあるバーバラでさえ、企業に潜入することはできなかったのである! (40歳という年齢の壁もあったのかもしれないが・・・・ジャーナリストという職業って何なんだ、と考え込んでしまった)

 バーバラは、会社に潜入することはできなかったが、「ある意味で私は成功したと言える」と書く。

 

「たとえドアの内側には入れてもらえなかったとしても、ホワイトカラー生活の、最も惨めで最も不安定な世界を垣間見ることができたのだ」

 アメリカの失業(そして失業予備軍)ホワイトカラーを餌食にする失業不安をネタにした転職ビジネスが紹介されている。

 「失業者や失業の不安を抱く者たちが、人の手助けと連帯を求めて手を差し出せば、それに応えて差し出された手にがっちりと掴まれ、そのままなかなか放してもらえないということがおうおうにして起こる。いつまでも念入りな履歴書のアップグレードに励み、心理学風の助言を繰り返して1時間200ドルを要求するコーチがいる。オフィスを提供してちびちび一回に1つずつコネを紹介する、エグゼクティブをターゲットにした会社がある。そして、アメリカじゅうの教会に、具体的な支援を宣伝しながら、せいぜい特定の宗派による癒ししか提供できないグループがある」

 こうした転職ビジネス(アメリカでは教会も含まれる)の網のなかに落ちると、失業したのは、転職できないのは、すべて自己責任だ、と吹き込まれるのである。失業者を生み出す社会構造があり、政治の失敗であるという言説はいっさい語られない。

「そのどの場でも、経済について、また経済が企業のありようを左右することについて、いささかでも危険なにおいのする会話は聞かれないのだ。

 この沈黙が、意図的に抑圧された結果だというつもりはない。失業ホワイトカラー労働者の危険分子に、自分たちがどんな状況に置かれているかを自由に話させたら、革命などと言い出す輩がいるかもしれないなどと警告を発している人間は、一人もいない。だが、コーチやネットワーキングの主催者の動機がどこにあるにしても、彼らの努力は、むずかしい問題や、それらの問題から生まれるかもしれないさまざまな異議や主張から、人々の気を逸らす、という「成果」を生んでいるのである」

 ホワイトカラー労働者は、ブルーカラーを見下す。その代償として、経営者のような考え方を心の中に深くすり込んでしまった。失業してもその経営者的な発想は抜けない。むしろその発想にすがろうとする。失業中のありあまる時間のなかで、モチベーションを維持しようと無益な努力をしたり、会社に勤めているかのように、規則正しい生活をして転職活動にいそしむのである。失業中でも「勝者のように振る舞うべき」とまで思いこむのだ。このような「努力」は報われない。なぜならば、転職において、自己の努力が通用するチャンスは気まぐれだからである。

 転職市場において、あなたと同じような能力をもったプロは無数にいる。そのなかから、チャンスをつかむのは、「性格と外見がよい人」なのだ。あいまいな基準をクリアするために、失業者はコストを支払うことを余儀なくされる。時間とお金が、転職ビジネスに捧げられる。

 こうして、ホワイトカラー労働者たちは、生きるために笑みを絶やさず、勝者のように振る舞い、社員をリストラする自社を批判する精神を放棄する。勤務中も、失業中も。

 自分の境遇を会社や社会のせいにするのは弱さであり、愚痴だ。負け組の遠吠えなのだ。

生きるためには「性格と外見のよい人」になるしかないのだろう。

精神も、外見も、肉体も、自分の時間も、すべてを、お客様のために、会社のために自主的に捧げる人生を送ろう。そうすればきっと「性格も外見もよい人」になれる。


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