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『斬首の光景』ジュリア・クリステヴァ(みすず書房)

斬首の光景

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「顔の恐怖」

ルーヴル美術館のデッサン部が外部からゲストを招いて企画する展覧会シリーズ「パルティ・プリ」のシリーズの一冊だ。この企画ではすでに盲目にする絵画を扱ったデリダの『亡者の記憶』があり、大型本で贅沢な作りのものらしい(p.259)。デリダの解読もユニークだったが、クリステヴァのこの書物も、メドゥーサの首を経由して精神分析の深いところとつながる好著である。

デリダの書物はテーマが目であり、この書物は首(顔)であるだけに、共通するところもあり、両方の書物に登場する絵画もある。比較して分析を読み比べると、自分なりの分析を考えるための手がかりにもなる。絵そのものも見ていて考えさせられるものが多い。

近代の絵画は目をつぶす行為と首を切る行為にどこまでも意識的であるだけでなく、ときには無意識的なまでに憑かれているかのようである。そこに精神分析的な考察が必要なのは明らかだろう。そしてその役割にはデリダよりもクリステヴァが最適なのはたしかだ。デリダフロイトへの好みは、精神分析の内部に立ち入るよりも、テクスト論を軸とすることが多いからだ。

暗闇に浮かぶ首の奇妙な記憶と妄想については、初期ヘーゲルの『体系構想』でも語られていて、異様な印象を残しているが、まずクリステヴァはそれを乳児の記憶というところから考える。どこからともなく訪れ、愛撫してくれる首、乳を与えてくれる乳房、乳児はそれをつねに身近に保っておきたいのに、それは奪われてしまう。

「別離と欠如が乳児を苦しめ、乳児は自分がすべてを手にいれられるわけではないこと、自分がすべてではないこと、自分は見捨てられ、一人であることなどを納得する。この最初の喪の悲しみから回復しない乳児もいる」(p.9)のである。「死んだ」ママンとともに、ママンの喪に服して、みずからの生命の源を絶ってしまうのである。

もちろんそうでない乳児がほとんどだ。ぼくたちはだれもがその段階を経由してきたのだ。乳児はその喪を克服するために、二つのものに頼る。一つは表象であり、一つは言語である。消えたママンの顔の代わりに乳児は一つの表象を、幻想を置く。ファンタジアは乳児に母親の不在を耐えさせる。次に乳児はそれに記号をつける。そして言葉を習得するのだ。クリステヴァによると、そしてメラニー・クラインによると、やがて話しだそうとする乳児は「他者を失った喪の悲しみ」に耐えるかのように、辛そうな顔をするのだという(Ibid.)。

フロイトの孫のエルンストのオー/ダーの糸巻ごっこが語るのも、まさにそのことに他ならない。言葉は、失われた母親とその表象の場所に登場する。そしてその幻想の場に「顔」が表象として登場するとき、それは首となる。切られた首の像は、幼児のこの喪の経験と通底しているのである。抑鬱的な態勢のうちで、子供は母親の喪のうちで、言語を習得し、不在の顔を思い浮かべる。「抑鬱的な局面は、母との接触によってもたらされる感覚的な満足が失われることによって言語が生じる、ということを明らかにしている」(p.24)と言えるだろう。

古代の人間もそして「未開の」種族も、原父を殺して、トーテムの動物を殺して、饗宴にふける。クリステヴァはここにおいて、父親との同一化だけではなく、母親との同一化も行なわれると解釈する。「他者の頭部を同化吸収し、……頭蓋の球形に手を加えること、儀礼的な食人は、父=暴君を食いつくすこと以上ではないとしても、それと同じ程度に、産みの母の潜在力をわがものとすることである」(p.25)。こうして頭蓋崇拝は、母の原初的喪失(鬱=メランコリーの源泉)の出来事と、父による去勢の脅威としての男根的な試練の出来事の記憶をとどめることになる(p.26)。レヴィの『ヴァーチャルとは何か?』でも、敵の首で球技にふける種族の物語が語られていたが、首のもつ意味は深いのである。

だからこそ、メドウーサの首が西洋の絵画史で決定的な意味をもつことになる。多くの絵画は鏡に写ったメドゥーサの首を切る決定的な瞬間を描く。この首は、「あらゆる表象能力に先立って、生殺与奪の権を握っている〈母親〉の恐怖の権力」を主張すると同時に、それを切断するという営みによって、去勢にたいする不安とそれへの抵抗を示すことになる。

クリステヴァによると、直視することのできないもの、それはペニスを切断された「女性の性器にたいする恐怖」(p.49)であると同時に、ペニス切断への恐怖でもある。そして人々はもっとも見たくないものに、もっとも惹かれるのである。そしてそこからしか、人間の思考の能力は展開されないかのようである。「光景、思索は、正面を見つめ、内側にある憂鬱を他者に見せる能力にかかっている」のであり、人間はこれを克服することで初めて、「幻想を自由にあふれさせることができる」(p.51)のだ。

そして「去勢への激しい不安はエロティシズムを帯びることがあるし、[幻想のなかで]上演することが可能である」(p.141)。いまや思索することができ、幻想と表象を扱うことができるようになった主体は、「エロティシズムと言語という対抗手段を自由に行使することができる」(Ibid.)ようになる。サドもまたこうした恐怖に抗うかのような、さまざまな幻想を駆使したのだった。

西洋の歴史において、この母親の恐怖の権力と、それに抗う営みが文学や芸術のさまざまな表現の背後に姿をのぞかせている。首だけでなく、顔の画像学もそのヴァリエーションを展開して倦むところがない。顔とは、みつめていると怖くなるものなのだ。

【書誌情報】

■斬首の光景

ジュリア・クリステヴァ[著]

■星埜守之,塚本昌則共訳

みすず書房

■2005.1

■275,10p ; 22cm

■原タイトル: Visions capitales.

■4622070855

■定価 4200円

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