『残りの時 パウロ講義』ジョルジョ・アガンベン(岩波書店)
「メシア思想の解読の試み」
アガンベンの『アウシュヴィッツの残りのもの』は名著だったが、このタイトルにもなっている「残りのもの」という概念は、旧約聖書でも不思議に思わせる概念であった。神の王国にゆけるのは「イスラエルの残りのもの」というのであるが、それがいったいどんな人々かは、謎のままだからである。
『アウシュヴィッツの残りのもの』ではアガンベンはこの「残りのもの」をアウシュヴィッツの「証人」という意味で使っていたのだった。それは「死者でもなく、生き残った者でもなく、死んでしまった者でもなければ、救いあげられた者でもな、かれらのあいだにあって残っているもの」(同書の二二一ページ)というのだった。
この残りの者の概念をパウロのメシア思想から読みとろうというのが、本書の目指すところだ。そのためにパウロの『ローマの信徒たちへの手紙』の最初の文を細かに分析していくという手段をとる。六日の講義(もちろん七日目は休息日だから)でドゥーロス、クレートス、アポストロス、エウアンゲリオンという基本概念が詳しく考察されるが、それをたんにパウロの政治神学の枠組みにとどめることになく、シュミット、ベンヤミン、アドルノ、アレントなどの現代思想とも結びつけて解釈していく手際はすばらしい。
たとえばベンヤミンのパサージュ論には「アポロの切断」という語がでてくるが、これはアペレスの切断の読み間違いであることを指摘しながら、メシア的な律法をアペレスの切断であると指摘するところは素晴らしい。古代の伝説的な画家のアペレスの切断とは、絵の本物らしさの競争で、アペレスが相手の描いた線の中にもう一本の線を入れることで、「自己の対象そのものはもたずに、律法によって引かれたもろもろの分割を分か」った(p.82)ことである。
アガンベンはパウロが律法を守る者と守らないものの間に、この切断をさしはさむことによって、ユダヤ人と非ユダヤ人という区別が突然にゆらいでしまい、ユダヤ人ならぬユダヤ人と、非ユダヤ人ならぬ非ユダヤ人が登場してくることをまざまざと描き出す。そしてこの区別のうちから「人間とはかぎりなく自己自身に欠けた存在であること」(p.87)という哲学的なテーゼが導かれる。
パウロが明確にした「イエスの時」の難問も、このアペレスの分割の思想で巧みに解明される。ギリシアの思想の伝統を踏まえながら、メシア思想が現代においてもつ意味をときあかす試みは、メシア思想がベンヤミンにおいてもっていた重要性を考えるならば、そしてデリダにおけるメシア思想の復活の意味を考えるならば、どれほど重要であるかは十分に予測できることだろう。
アガンベンは「残りの者」の思想をムルチチュード的な意味で敷衍するところも示唆深い。この概念は「民衆とか民主主義といった観念を、新たな展望にもとに置きなおすことを可能にしてくれる。民衆とは、全体でも部分でもなく、多数派でも少数派でもない。それはむしろ全体としても部分としても自己自身と一致することのけっしてできないもの、あらゆる分割において限りなく残っていて、あるいは抵抗していて、……多数派にも少数派にも還元されたままになっていることのけっしてないものである」(p.94)。アガンベンはこの「残りの者」構造が、「唯一の現実的な政治的主体である」とまで断言するのである。
ベンヤミンの「歴史哲学テーゼ」において、ルターを介してパウロが引用されているという論証は説得力があり、「パウロの〈手紙〉とベンヤミンの〈歴史哲学テーゼ〉という、わたしたちの伝統におけるメシアニズムの二つの最高のテクスト」が、星座的位置関係を形成しているという指摘は、ベンヤミンの思想の宗教的な「根」について、さまざまなことを考えさせる。本書で考察されているパウロの思想と聖書のさまざまな概念について、もっと書きたいことは山ほどあるが、ともかく一読をお勧めする。イエスの時についてこだわり続けている大貫隆と訳者との対談も参考になる。
【書誌情報】
■残りの時 パウロ講義
■ジョルジョ・アガンベン[著]
■上村忠男訳
■岩波書店
■2005.9
■296,12p ; 20cm
■ISBN 4000018175
■定価 2800円