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『雪国(改版)』川端康成(新潮文庫)

雪国

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 日本にいると、自分が日本人であるという事を意識する機会は少ないかもしれない。しかし、海外で生活するといたる所でそれを意識させられる。移民局で滞在許可書を申請する時のような正式な機会ではなくとも、マーケットで買い物中に突然中国語(らしき言葉)で話しかけられたり、フランス人に片言の日本語で話しかけられたり、テレビで「ジャポン」(フランス語で「日本」を表す)という言葉が聞こえるとすぐ反応したりと、その機会は多い。

 川端康成の作品は、フランスでも常に「純日本的」という形で紹介される事が多い。だが、一応日本人である私は戸惑ってしまう。「日本的」というのは何なのだろう、と。伝統、自然、神道、仏教、謎の微笑み(モナリザではないが、日本人はいつも微笑んでいるが、何を考えているか分からない、という通説はまだ生きている)と、キーワードはあるのだが、どうもしっくりこない。

 『雪国』はもちろん川端の代表作でもあるし「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」という冒頭は知らない人がいないほどであろう。このトンネルが「日常」から「非日常」へ、または「異次元」への旅を示す事もうなずける。続く文が面白い。「夜の底が白くなった。」川端は新感覚派と呼ばれたが、この感覚は今でも新鮮だ。夜に「底」があるかどうか悩む必要はない。私達は雪景色の中を走る夜汽車を明確に見ることができる。しかも、私達が見る風景は、既に主人公の島村の視点と一致している。

 その少し後に有名な「鏡像」のシーンが来る。島村は汽車の窓ガラスに映る葉子の像を見つめているのだが、外灯がともり、その灯火が葉子の目の位置にあり、次のような文となる。「娘の眼と火とが重なった瞬間、彼女の眼は夕闇の波間に浮ぶ、妖しく美しい夜光虫であった。」何と幻想的で妖艶なイメージを喚起することであろう。しかし、これらの素晴らしい表現が「日本的」だとは思えない。

 『雪国』には一方通行の恋愛関係が存在する。葉子→行男→駒子→島村、という関係だが、物語の終盤で島村は葉子に惹かれ始めて、環が閉じるのかと思いきや、突然の悲劇でそれは不可能となる。確かに雪国は美しい。情景描写も見事だ。だがそれとても「日本的」というには物足りない。

 英語版の翻訳者であるサイデンステッカーは、この作品の日本語の美しさとして、特に短詩型文学の利点を生かしていることと主語の省略とをあげている。しかし、翻訳でこの「美しさ」を読み取るのは容易ではない。英語や仏語等で『雪国』を読んだ一般読者達が「日本的美」を感じるのであれば、それは主に内容に関してのはずだ。

 作品を支配する空気は「哀しさ」である。「もののあはれ」と言い換えても良い。成就しない恋に情熱を傾け「徒労」の人生を送る駒子、振り向いてもらえない相手に尽くし、力尽きていく葉子、駒子を利用しているように見える島村でさえ、天の河が彼の中に流れ落ちるエピローグは哀しみに満ちている。雪国という白く、冷たく、純粋な世界を背景にして全編に流れるこの「哀しさ」こそが、日本的なものなのではないか。それは戦争前後に書かれたこの作品が包含する「滅びの美学」に通じるものなのかもしれない。

 現代の日本人には見えにくいが、外国人には明確に見える美しさが、この作品には込められている。種々の国際化が進む中、私達がまず問うべきことは、日本人とは、日本的なものとは何か、という事ではないだろうか。その意味において『雪国』は、今こそ私達にとって多くの示唆を与えてくれる作品であろう。

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