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『プラトンのミュートス 』國方 栄二(京都大学学術出版会)

プラトンのミュートス

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「ロゴスとミュートス」

ハイデガーが『存在と時間』の冒頭でプラトンの『ソフィステス』を引用しながら、哲学の問いとは「いかなる神話(ミュートス)も語らないこと」(242c)だと語ったこともあって、哲学は神話とは対立したものだと思いがちだ。

 そもそも古代のギリシアの哲学の誕生は、「神話からロゴスへ」という道をたどったものと語られることが多い。それまでの宗教的で神話的な自然理解が、タレスを初めとして、知の言葉で語られるようになったことが、ギリシアの哲学の端緒とされるのが通例だからだ。

 しかし奇妙なことにプラトンにおいても、ロゴスの弁証法とともに、そのもっとも重要なところで神話(ミュ-トス)が語られることが多い。プラトンがときに哲学の言葉を放棄したようにみえることがあるのである。この書物は、その秘密を解明しようとする。

 著者は、ホメロスとヘシオドスのテクストを調べてみると、ミュートスとロゴスは「物語」という意味でほぼ同義的に使われていること、ロゴスは「否定的な意味合い」(p.82)で使われていることが多いことに注目する。「空言」「虚言」という意味で使われることが多いのである。「ロゴスが積極的に合理性の意味をもつようになったのは、哲学者たちの功績」(同)なのである。ロゴスがミュートスよりも重視されるようになったのは哲学者からであり、しかも「彼らはミュートスを否定することによって、ロゴスの思想に到達したのではなかった」(p.83)のである。

 彼らはミュートスが「真実に似た虚偽」として、真実を合理的に語るロゴスよりも、さらに強い力を発揮することを畏れたのである。それは「語り手の熟達した技」(p.67)を示す言葉であり、たんな誤りではなく、虚偽の形で真実を語るものである。プラトンは、理想の国家から詩人たちを追放しようとした。それはロゴスの国からミュートスを排除しようとしたわけではなく、ミュートスがロゴスを上回る強い力で、神々について、理想国家に好ましくない物語を人々に信じさせる可能性があったからである、と著者は指摘する。

 それはプラトン自身がミュートスを語りつづけていることからも理解できる。ロゴスの力が及ばなくなったところからは、ミュートスに頼るしかないのであり、プラトンの国家では詩人ではなく、哲学者がミュートスを語るのである。そのための詩人追放だったのかもしれないのである。

 著者はさまざまなプラトンのミュートスの分類方法を列挙しながら、結局はそのテーマで二つの大きな分類を採用する。「魂の死後の運命についてのミュートス」(『ゴルギアス』『ファイドン』『国家』『ファイドロス』と、「宇宙の生成、人類の誕生についてのミュートス」(『政治家』『ティマイオス』『クリティアス』である。

 この二つのミュートス群は、二つの共通な目標で貫かれている。一つは、悪をなすのは、悪をなされるのよりも好ましくないことであるというプラトンの道徳論の主張が人々に信じられないために、死後の世界における裁きというミュートスに訴えること、そしてこれを決定論に委ねずに、生きている時代における道徳的な振る舞いと関連づけることであり、もう一つは、この悪を人間の責任として、神の責任を解除する弁神論を提示することである。

 最初のグループのミュートスは、『国家』のエルの神話に代表されるように、人々に悪をなして生きた人々の死後の生の惨めさを訴えかける。これは「呪文のように」(p.163)語られるべきものである。キリスト教の地獄の理論の原形は、すでにこのミュートスにある。ユダヤ人には地獄の概念は存在せず、原始キリスト教にも、そのようなものはなかった。煉獄と地獄は中世のキリスト教の発明であるが、プラトンの哲学にその原形が存在しているのである。

 ここで注目されるのは、たんにこの地獄が死後の生への刑罰して考えられているけでなく、生まれ変わる次の世界における生を規制するものとして語られていることである。生前の暮らし方に応じて、すべての魂は次の世界でどのような者として生きるかを選択することになっているが、その生は、「選んだ後に、つまりこの世に生を享けた後に、どのような生を送るかによって決まる」(p.171)とされているのである。

 前の生で送ってきた生活が僭主のようなものであった魂は、きっと次の生を僭主として過ごすことを選ぶだろう。しかし次の生でほんとうに僭主としての生を送るかどうかは、その段階ではまだ決まっていない。その選択は「その人が徳性に関してどのような生きるかということまでがきめられてしまうわけではない」(同)のである。それでなければ、その人は僭主の生を永遠に離れることはできないだろう。しかし自己を配慮して、道徳的な生を過ごそうとすることで、次の生をもっと良いものにする可能性も残されているのである。

 このように第一のグループのミユートスは、死後の地獄を恐れることを教えるだけではなく、次の生での道徳性についても教えているのである。そして第二のグループのミュートスが教えるのは、次の生における人間の道徳性である。このミュートスでは、悪の起源についてそれが肉体に由来するのか、魂に由来するのかが考察される。そしてプラトンが示すのは、「物体(身体)はたしかに魂を無秩序な混乱した状態に至らせるけれども、悪の原因(責任)は魂あるいは魂の無知にある」(P.243)ということである。

 ここでも人間が悪をなすのは、魂の欠陥であり、これ改善することで、悪を防ぐことができるようになることが考えられている。魂が身体に入ると、身体のもつさまざまな感覚、欲望、恐怖などに悩まされるが、これらを魂が克己によって克服するならば、「正しい生き方をするようになり、それらに征服されるならば不正な生き方をすることになる」(同)のである。どちらにしても人間が悪をなすのは、魂の欠陥によるものであり、世界をつくりだした神の責任ではないことになるのである。「責任はむしろ人間の魂(プシュケー)にある」(p.246)のである。

 真実アレーテイアの語義の解釈や、アレーテイアのハイデガー的な客観主義的な解釈と主観的な解釈の対比、真理を語るディスクールの構造など、プラトンのミュートスについてだけでなく、真理についての考察も含められていて、楽しく読める一冊である。

【書誌情報】

プラトンのミュートス

■國方 栄二【著】

京都大学学術出版会

■2007/02/15

■340p / 21cm / A5判

■ISBN 9784876987078

■定価 4410円


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