『フランク・ロイド・ライトの呪術空間』草森紳一(フィルムアート社)
ライトの「限界」と「凄み」を伝える異色の書
フランク・ロイド・ライトの建てた旧帝国ホテルを知っている人は異口同音に、あのホテルは暗かったと言う。わたしのおぼろげな記憶でもそうで、華やかさにはほど遠く、ちょっと恐い感じさえした。いったいこの建物のどこがいいんだろう、パレスホテルのほうがずっとステキなのに、と思ったものである。
草森紳一は「穴めぐりのような帝国ホテルに身をくぐらせた体験は、なんどもあったし、写真集で彼の代表作を見ていて、そこにキナくさい呪術的な<円>なるものを感じていた」と序文の「有機の魔法」で書いている。「キナくさい」と書くところが彼らしい。簡単には呪術にひっかからないぞ、というわけで、このあたりの距離感が、ライトの建築にさほど入れ込んでいるわけではないわたしの興味をひっぱっていく力になっている。
アメリカでライト・ツアーに参加し、彼の建築物をその眼で確認し、体感してのちに、これらの文章は書かれた。ライトが老子や岡倉天心の思想と邂逅した道筋、「有機建築」と「東洋的なるもの」の関係、『森の生活』の著者ソーローの影響なども考察され、ライトの根っこが掘られていくが、彼の代表作であるカウフマンの別荘<落水荘>を見たときに、五浦にある岡倉天心の別荘<六角堂>を思い出し、こう語っているところなどが、わたしには興味深い。結局は草森がライトの建築をどう思ったかが知りたいのだ。
「六角堂では、これを作ったものたちの息づかいもなければ、岡倉天心の匂いもない。私が入れば、私がいるだけだ。しかし<落水荘>には、ライトがいた。持主のカウフマンの気配はなく、ライトの呼吸のみがあった」
ライトは建物の使い方を、すみずみまにわたるまで施主に指示し、それが変更されるのをいやがった。カリフォルニアはスタンフォード大学の丘にあるハナ教授の住宅では、見学はさせてはくれたが、撮影は許可しなかった。ライトの指示通りに部屋を使ってないことが理由だった。ところがこの住宅では、他のライトの住宅で体験したような息の詰まるような感じがあまりしなかったと言う。
ライトは自然と一体化した<有機建築>を提唱し、石や巨木を建物の一部に取り込んだ建築を多く造った。森のなかに自力でシンプルな家を造ってくらしたソーローは、ライトの<有機建築>を実践した先人だが、草森によればソーローは「住む人間こそが、建築家だ」と考えたところがライトとちがう。ライトはソーローが否定した「建築家」になることに自分の存在理由を見いだし、そのことにジレンマを感じるどころか、フロンティア意識に燃えたのだった。
ライトの建築に見られるゴシック精神を、アメリカ文学との関わりで語った「ゴシック精神のリバイバル」の章もおもしろい。18世紀のブラウンにはじまり、ポー、ホーソン、メルヴィル、マーク・トウェイン、ヘンリー・ジェームス、フォークナーに至るアメリカ文学の主流にはゴシック精神が息づいているが、イギリス文学ではそうはならなかった。それはイギリスのゴシック作家たちが建築のゴシック・リバイバルの風潮に影響されて建築趣味に走ったからで、それとは対照的にゴシック建築を体験していないアメリカ文学は風土のなかにゴシックの精神を見いだそうとした。その点ではライトの建築も同様で、「だから、ライトの発言は、もろにアメリカ文学の主流とつながっている」。
ライトの建物は、平べったい屋根で水平ラインを強調したものが多い。初期にはそれをゴシック様式の垂直性と対比させて、「水平ゴシック」「横たわるゴシック」と揶揄する声が挙がったが、ライトはそれを余裕しゃくしゃくで受け止めた。ゴシック精神をフォルムではなく、有機的に復活させたのだから、怒るには当たらないというわけだ。20世紀にあってはアメリカの風土でこそゴシックは根付く、ライトはそう信じていた。
ライトの自然観には、アメリカ中西部のウィスコンシンの草原で育まれたもの、ヨーロッパのロマンチシズム、さらにエマーソン、ソーローの自然観、フロンティアスピリットや楽園思想などがからまっており、それが理念を超えて血肉となっている。彼の理解をむずかしくしているのはそこだと草森は主張する。
「ライトのわかりにくさは、彼の弁じる有機思想そのものよりも、コンパスを駆使する腕や指の中に、文学的というか、つまり割りきれぬもののうごめきがつまっていて、それが設計図や建築物の上できわめて霊的な動きをするからである」
大自然のなかで育ったライトは大地のエネルギーに敏感だった。大樹が生え、水が滲み出し、大きな岩が露出しているような困難な場所にあえて建物を造り、その力を蓄電しようとした。地霊を扱えるというより、「地霊そのもの」のような人だった。
ライトの空間では「一種の妖しげな無重力の感覚におちいる」という。無重力は非日常的な感覚だから、魂が肉体から離れて動きだす。ドナルド・ホフマン著『ロビーハウス』には、ライトの設計した家に暮らすロビー一家の写真がふんだんに入っているが、そのどれもが<心霊写真>のように見えたという指摘は草森らしい。
「人間関係を遠くしている感じがある。どうも人間個人の心霊が独立してしまい、人間同志の親しげな交歓を疎外してしまうところがある」。
「建築! 人間!」と呪文を唱えつづけたライトだったが、彼の造った建物のなかでは団らんは生まれにくかった。ロビー家の娘も、両親がライトの作った食卓ではなく、隅の小さなテーブルで食事をしていたと回想している。このように住人が窮屈そうに暮らしている傾向は、草森が見学したどの住宅にも共通して見られたと言う。
それが「ライトの有機性の限界だ」と言いながらも草森は、彼の建築が「不断に見直され、不断に見棄てられる運命にある」ことを予言する。「生命としての人間の根っこをライトはあけっぴろげなまでのしつこさで、つかまえている」からで、時代の流れに見合ったはずの新様式が古びたときには、ライトを参照せずにはいられないのだ。
「凄み」と「限界」とがあざなわれた、異色のライト論である。