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『早稲田1968―団塊の世代に生まれて』三田誠広(廣済堂書店)

早稲田1968―団塊の世代に生まれて

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学生運動、挫折、それでも文学に生きる」

 団塊の世代学生運動を回顧するのはつねにある種のためらいや痛みが伴うものだ。本書(『早稲田1968―団塊の世代に生まれて』廣済堂新書、2013年)の著者、作家の三田誠広氏があえてそれを試みようとするのには理由があるだろう。私は、以前、著者の『マルクスの逆襲』(集英社新書、2009年)という本をある新聞の読書面に取り上げたことがあったが、そのとき、著者が高校時代からマルクスを読書会で読んでいたことを知ったので、学生運動についても何か書きたがっているような気配はつかんでいた。しかし、本書のようなタイトルでズバリと切り込んでくるとは予想していなかった。

 団塊の世代の高校生が「マルクス主義研究会」のような読書会をつくってマルクスを読むというのは当時ではそれほど珍しかったわけではないが、それをどこまで引きずるかは人によりけりだろう。端的にいえば、著者は、いまでも、それを引きずっているのである。1968年とは、著者が早稲田大学(文学部)に入学した年だが、それから1972年までの数年間のうちに東大闘争や日大闘争に始まり、連合赤軍事件でクライマックスを迎えるような事件がいくつも起こった。それゆえ、著者は、「1968」に注目する理由を次のように述べている。

「学生というものは既存の社会に批判の目を向け、命をかけてでも反体制運動に没入するものだという風潮が、そこで(1972年を指す―引用者)途切れてしまった。

 それ以後は、理念とか、義というものが失われ、お金だけが意味をもつ社会に変貌してしまった。

 その変わり目が、1968年のあたりにあったのではないかと思われる。」(同書、4ページ)

 著者の学生時代はまさに学生運動のピークから終焉までの時期に当たっているわけだが、著者が運動そのものに没入したというわけでは決してない。著者は、高校を一年間休学していた頃に書いた小説が一流の文芸誌に掲載され、早くから出版社の編集者との付き合いもあったので、小説家になるのは当然のコースのように思い込んでいた。だが、本格的な小説家として身を立てるには長い「潜伏期間」を経なければならなかった。その期間のかなりの部分が学生時代と重なっていたのである。

 著者の大学一、二年の頃は、早稲田のキャンパスでは正常な授業がほとんどなかった。文学部は革マル派の拠点だったが、高校時代からデモに参加したこともあった著者は、ある意味で学生運動に対する「免疫」のようなものをもっていたと言えなくもない。もちろん、こういう言い方は正しくないかもしれないが、著者は運動の最も激しかったときの活動にはいっさい関わっていない。

 例えば、早大全共闘が組織されてから早稲田闘争が始まったのだが、文学部のキャンパスでは革マル派中核派その他との対立があり、後者が前者を襲撃するという事件があった。しかし、文学部が革マル派の牙城であるという事実は変わらなかった。革マルに排除された勢力は、大隈会館の向かいの学生会館を占拠した。

 早稲田は、文学部とは少し離れたところにある本部キャンパスでは解放派の勢力が強く、民青もいたというように内部事情は相当に複雑なのだが、いずれにせよ、当時の著者は「学生の自主管理」というのもあり得るかなと漠然と考えた程度で、運動には深入りしていなかった。占拠された学生会館の中でクラス討議をおこなうような試みあったが、まもなく運動が過激化し、暴力が日常になってくると、夜中に小説を書き、昼頃に大学に顔を出すような生活をしていた著者の入り込む余地はなくなってきた。

 結局、学生会館の占拠は、機動隊の導入によって排除され、籠城していた学生たちは逮捕された。彼らは大学に戻ってこなかったし、大学側のロックアウトによってキャンパスで行き場を失ったセクト所属の学生たちは別の大学に移ったのかもしれないという。そのような光景を目の当たりにした青年が、程度の差はあれ、当時のことを後々まで何も引きずらなかったと考えるほうが不思議ではないだろうか。引きずらなかったという人も、単に記憶を封印しているだけかもしれない。感受性の鋭い著者は、何十年経っても、クラスの同窓会で大隈会館を眺めるたびに物思いにふけってしまうのだ。

「ぼくは日帰りの参加者だったから、夜の学生会館のようすは知らない。仲間たちはそこに泊まり込み、夜になると、向かいの大隈会館に向けて、瓦礫の破片を投げつけていたのだ。

 そうした記憶が、いまは心地よい痛みをともなった青春の思い出みたいなものになって胸の奥に残っているのだろうか、と想像してみる。

 いや、何年たっても、心地よい痛みにはならないだろう。いまでも心の奥底に、苦いものが残っているのではないか。そんなことも考えてみる。

 みんなちゃんとした社会人になっている。ぼくだけが青春小説みたいなものを書いているので、昔の雰囲気を引きずっているのかもしれない。だから、胸の痛みを感じるのは、ぼくだけなのかもしれないのだが。」(同書、163-164ページ)

 

 学生運動とは何だったのか。著者は、「お祭りだった」かもしれないとか、「高校の体育会系の部活に似ている」とか書いているが、要は「組織の中に、自分の居場所がある」というのがポイントのようだ。「これは人間にとって、大切なことだ。自分の居場所としての、共同体みたいなものがあって、その中で自分がどのあたりに位置づけられているか、ということがわかるというのが、人間の精神の安定には必要なのだ」と(同書、171ページ)。

 だが、そのような意味での組織であれば、必ずしも学生運動でなくともよいのではないかという疑問が生じるだろう。実際、学生運動が挫折したあと、多くの学生たちはキャンパスに戻り、卒業後いろいろな会社に就職していった。著者も例外ではない。「居場所」を提供したのは、日本の会社である(奥村宏氏の「会社本位主義」論を想起してほしい)。

「大学を出てから、ぼくは玩具業界誌に一年、自動車メーカーの販売店向け機関誌に三年いて、メーカーの社員や販売店のオーナー、営業マンなどに取材で接する機会があった。

 どの人も、仕事を生きがいにしていた。職場が、温かいコミュニティーになっていた。まるで田舎の『村社会』みたいに、会社というものは温かい人間関係で、働く人を支えていた。そういえばクライアントの自動車メーカーでは、会社のお祭りみたいなものを毎年開催していた。日本の企業は意図的に、会社を『村』のようなものにしようとしていたのだろう。

 だから日本のサラリーマンは、転職などせずに、定年まで同じ企業で働く人が多かった。それが日本企業の強みだと言われた時期もあったのだが・・・・・・。

 ぼくと同世代の人々も、就職して会社に入ると、会社という村社会に帰属することで、そこに生きがいを見いだすようになったのかもしれない。」(同書、241-242ページ)

 もちろん、著者は、長年苦労した末に、芥川賞につながる小説を書いて、会社とは離れていくのだが、この直観は間違っていないと思う。しかし、現在は大学教授としても若い学生をみているだけに、どうしても昔の学生気質と比較したい気になるようである。

「ぼくは大学の先生をしているので、いまの若者たちとつきあっている。彼らには夢がない。将来への希望がない。命をかけるほどの理念がない。若者に活力がないと、国家は衰退への一途をたどるだろう。日本という国は、大切なものを失ってしまったのだ。」(同書、234ページ)

 著者は、いまでも学生運動の「大義名分」を信じるほど現実離れはしていない。本書は一種の回想録だから、当時の気分を再現しようとするあまり、力が入りすぎてそのような誤解を招きかねない記述が散見されるだけである。それにもかかわらず、「1968」がいまから振り返ってもスリリングな時代だったという著者の指摘は当たっていると思う。そのメッセージが汲みとれるかどうかで、本書の評価は二分されるに違いない。

「いまの時点から見れば、すべての闘いは負け戦だった。何の意味もない、無駄な抵抗だったと、世の人々は見ているかもしれない。

 でも、コピーライターの糸井重里さんも、東京都知事猪瀬直樹さんも、全共闘運動の闘士だった。早稲田では、立松和平も、村上春樹も、闘っていたはずなのだ。

 その経験が、彼らの人生を豊かなものにしたのだと、ぼくは信じている。

 負け戦を体験したからこそ、彼らは強くなったのだ。」(同書、268ページ)

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