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『唐十郎の劇世界』扇田昭彦(右文書院)

唐十郎の劇世界

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[劇評家の作業日誌](23)

劇評家の「資質」とは何か。


誤解をおそれずに言えば、それは苛烈な劇の現場に立ち会いたいという欲望の強さではないだろうか。今、もっとも刺激的で時代を凝縮した現場に出会いたい。そのためには、独自の嗅覚を研ぎ澄まし、その場を探り当てる根気強さとフットワークの軽さが不可欠だ。その場にたどり着けるか否かによって、劇評家の「才能」が問われるのだ。劇評家は論ずる対象によって仕事の成果が半ば規定されてしまうとすれば、これは決定的に重要なことなのである。

扇田昭彦氏と唐十郎氏は1967年に新宿の花園神社の小さな紅いテントで出会った。当時、朝日新聞の演劇記者になったばかりの扇田氏は、それ以来この稀有な才能を見続け、なんと40年もの間伴走し続けてきた。その間に書かれた文章は実に92本に達する。(もっとも「あとがき」によれば、解説や対談の類は外したとあるから、これ以外にもまだまだ論考があることになる。)離合集散の激しい演劇の世界で、一貫して一人の芸術家を追い続けた例は他にないのではないか。

本書は若い無名だった者同志が出会い、そこから切磋琢磨して互いの演劇観を鍛え上げ、ついに現代演劇の「黄金時代」を築き上げた軌跡が綴られている。劇評家としてはまさに「嫉妬」すべき書物であり、その「僥倖」に立ち会い続けた一人の劇評家の慶賀すべきドキュメントである。

そのきっかけとなった事件が二つあった。いずれも1969年のことである。その一つは、新宿西口公園での無断上演である。これは文字通り「事件」となって、唐をはじめ三人の劇団員が新宿警察署に拘留された。もう一つは、この夏に敢行された「日本列島南下興行」の旅である。扇田氏はこの旅公演に一週間ほど同行し、状況劇場の奔放な生き方に裏打ちされた演劇の旅を目撃した。上演不可能だと思った公園にまんまと出し抜いてテントを張り、真夏の日本列島を縦断しながら、次々と打ち寄せる困難を打開していく人間力唐十郎の「天才性」を確信し、本物の「凄さ」を目のあたりにした二つの出来事だったのだ。

「劇評家の仕事」を副題に持つエッセイ「夜明けの白い道」で、扇田氏はこう記している。

「劇評を書く演劇ジャーナリストの私の一番の喜びは、なんといっても、新しい才能をもった新しい集団の舞台に出会うことである。そうした出会いは、観客としての私を高揚させてくれるし、同時にしばしば異様に元気にしてくれる。」(376頁)

本書を貫く主調音を構成するのは、唐十郎状況劇場=紅テントに出会った劇評家の 「高揚」した言葉たちだ。とくに初期状況劇場を語るさいの扇田氏の言葉は華麗で、天才的な演劇家に出会ったことへの喜びに満ち溢れている。扇田氏はまさに唐十郎とともに演劇そのものを発見する過程に立ち会ったのである。

例えば次の一節には、演劇とは何かへの回答の一端が見られる。

唐十郎の芝居の連作を考えるとき、私はよくポーの小説『メエルストレエムの大渦』を思い浮かべる。広大な漏斗状の渦巻の内側を、目もくらむ速さで回転する主人公のまわりには、船の破片や家具、箱といったおなじみのオブジェが上になり下になりしながら疾走しており、それらは渦の底の『破滅』に向かってまっしぐらに落下しつつあるのだ。」(43頁)

わたしも唐芝居のなかにまったく同じ連想を抱いたことがある。ポーの小説を連想したのも同様だった。(偶然にも同じような記述が野田秀樹の『半神』にもあったことを記憶している。)

また扇田氏の次の一文は、演劇の本質に鋭く踏み込む緊張感がみなぎっている。

「舞台に呼びさまされて、私の内部にひそむ、私自身思いもよらなかった扉が次々に内側から開かれる瞬間がやってくるのだ。(略)こうした体験をしたとき、舞台はもう作者や俳優たちが生み出した幻想だけにはとどまらない。それは私の過去と幻想迄が加わった複合的な作品となる。」(191頁)

演劇が個人的な想像から出発して、ついには他人をも巻き込む共同性への回路を開き、観客という他者とともに一個の劇宇宙を創りあげる演劇の本質を見事に言い当てている。

本書のなかで特筆すべきは、やはり唐十郎の演劇的展開を追ったところにあるだろう。それは状況劇場から唐組へという集団論にも通じている。紅テントを彩った多くの名花たち、屈強な男優たちがまるで今そこに姿を現わすかのように次々と活写されていく。李礼仙(現麗仙)、麿赤児四谷シモン大久保鷹不破万作、十貫寺梅軒、根津甚八小林薫、金守珍、六平直政佐野史郎らの面々。こうした強者たちの跳梁が、もう一度ペンの力で呼び起こされる様は圧巻だ。

唐十郎の劇作の特質を「神話性」において捉えているところはすぐれた唐十郎論になりえている。『吸血姫』『二都物語』から『ベンガルの虎』『唐版・風の又三郎』へ連なる連作は、状況劇場のみならず演劇史上に残る「絶頂」だったことは、とくに熱い=厚い記述となって蘇ってくる。いわば集団論と作家論が合体し、演劇批評としてはきわめて充実した内容を持っている。

では、初期唐十郎に扇田氏は何を見ていたのか。一言でいえば、政治を通さない「革命」ではなかったか。それは左翼イデオロギーとは異なった類のものだった。約言すれは「生にはそれ自体を破壊せずにはおかない暗い衝動があるけれど、ぼくはこうした生衝動そのものが革命的だと思っている」(69頁)という唐自身の言葉と響き合ってくるだろう。

「当時、紅テントはあらゆる意味で、芸術的にも政治的にも社会的にも、強固な異物だった。町の真中にあらわれた毒花のような八角形のテントそのものが、多くの反権力的な象徴性をおびていた。」(153頁)

さらにそのテントの質について--「舞台は客席は互いに共感しあうのではなく、鋭く対決しなければならない。」(99頁)としながらも、「甘美な陶酔感の飛翔にひたすら身をゆだねたいとする陶酔願望型の観客を多く生み出してきた。(略)峻拒することによって逆に客をひきつけてやまないというダイナミックな交流をつくり出すところにこそある。」(112頁)と定義づけるのである。

こうした記述に続けて、扇田氏は唐の代弁者を任ずる。「『革新』のなかにあぐらをかいている血と痛みを忘れた『健忘症』、『匕首』を置き忘れたひよわな『芸術良民』性こそが侮蔑の対象だった。」(153頁)

ほとんど二人は一卵性双生児のように、一つの目標に向ってひた走る。これらを記述する筆者が実に幸福な時期を過ごしたことが手にとるように伝わってくる。創作家と批評家の幸福な「共犯関係」である。

だが、「幸福な関係」はそんなに長くは続かない。ある時期を境に、集団の衰弱をどこかで感じ取り、自身の心にも痛みと感じ、だがそれでもなお劇評家としてそれを冷静に見据えて表明しなければならないからだ。同伴期が幸福であればあるほど、その表明は辛い。もしかすると、それは「永遠の訣別」になるやもしれない。これは劇評家ならば、誰もが経験したことだろう。

そしてそれは75年に『妖鯨おぼろ』に訪れた。劇団員に詰め寄られた苦い経験について扇田氏はこう綴っている。

「演劇界という奇妙に狭苦しい小社会において困ることは、或る才能を高く評価すると、たちまち『……派』というレッテルを張られがちであるということだ。……批判や酷評が正当な作品レベルでの問題にならず、彼らへの『裏切り』として受けとめられてしまうのだ。」(378頁)

パーソナルな関係を要求してくる劇現場と付き合うことは、想像以上に難しい選択だ。ならば、徹底してインパーソナルな関係を貫けるかというと、そうもいかない。そもそも演劇というジャンルを選択することは、人間関係が「好き」だからであり、人間関係の深みに入らなければ、本当に面白く激烈な経験などもできないのだ。劇評家とは、人間関係にもみくちゃにされながら、それでも情に流されない「距離感」とそれを支える倫理意識のエキスパートでなければならない。

唐十郎の「新たな季節」は幻想が成立しなくなった80年代に訪れる。

「おそらく唐十郎は、かつてのようなロマンチックな劇作術では「現在」を描けないことを知っているのだ。」(257頁)

これは93年の『動物園が消える日』に寄せた一文である。唐十郎には幾つかの危機もしくは転機があった。「『少女仮面』をきっかけにして、ひたすら役者体に奉仕するこれまでの台本作者から脱して、むしろ完成度の高い戯曲によって役者を引っぱっていく劇作家へと成長していく」(319頁)最初期。

だがこれを機に、麿やシモンが退団する。70年代末には、人気絶頂の根津甚八小林薫がマスコミに盗まれた。80年代に入ると、夫人であり主演女優の李との不仲から創作不振になり集団内部がギクシャクした。唐組を結成してからも、以前のような熱がテントに集まらず、暗闘が続いた日々。そしてここ五年ほどで「ルネサンス」と呼ばれる唐ブームが再到来していること。こうしたいくつもの「季節」を経て、終始変わらなかったのは、鈴木忠志が唐について記した言葉「おさな心の発露」である。この言葉を扇田氏は繰り返し引用しているが、唐十郎の「天才性」の裏側に「おさな心」を見てきたこと、それを何よりも大事に愛しんできたことが伝わってくる。

本書に即すれば、80年代後半以降の記述は、第七病棟を除けば、いささか薄くなるのは否めない。だがそれでも最後の新宿梁山泊の『風のほこり』を幕引きとして扇田氏は唐論を書き続けた。そこに扇田―唐の「友愛」があったことは言うまでもない。

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