『太田省吾劇テクスト集(全)』太田省吾(早月堂書房)
[劇評家の作業日誌](39)
劇作家・太田省吾さんが亡くなられてから、早いもので一年余が経った。その追悼の意もこめて、この8月、金沢の前衛劇集団新人類人猿による『プラスチック・ローズ』(若山知良演出)が金沢芸術村で上演された。わたしはこの公演にさいして、太田さんについての短いレクチャーを行なったが、この機に彼の5冊の戯曲集と未収録作を集成した『劇テクスト集(全)』を読み直してみた。菊判で650頁を超える大著である。
まず、タイトルが「戯曲集」でなく、「テクスト集」になっていることに着目したい。 「戯曲」という文学性を否定し、上演に即した言語体としての「テクスト」を冠しているのである。これは生前の太田氏の意向に沿ったものだろう。さまざまな「引用」から成る「テクスト」には、オリジナルの言葉ではなく、すでに使われた言葉をもう一回織り込んでいくニュアンスがこめられている。もともと texture という単語には「織物」が含意 されており、多様な言語素材を縫い合わせていくことで、上演のテクストが立ち上っていくのだ。彼の最後の作品『→ヤジルシ』ではこれを「盗用テクスト」と称して、上演中に出典を明らかにしたこともある。
一時期、太田氏は、自分は「劇作家」なのか「演出家」なのか煩悶していた。ゼロから世界を構築していくのが劇作家だとすると、すでに「書かれたもの」をどう「読み直すか」が演出家の書く台本ではないか。つまりメタレベルで演劇の「再演劇化」を志向するのが演出家だというのが彼の考えなのだ。「新劇」による文学の立体化を否定し、集団の身体性に支えられた表現を志向した「アングラ演劇」では、言葉のあり方がまったく変わってしまった。それが60年代の「演劇革命」の内実だった。演出家が上演に即して書いた 「テクスト」では、舞台空間はセリフのみならず、多彩な演劇独自の言語、すなわち音響、照明、衣裳、美術、そして俳優の演技によって構成される。太田省吾氏の行き着いた「沈黙劇」というスタイルは、文字通りセリフのない、動きだけの劇である。これはト書きだけで記述された進行用の台本だ。
沈黙劇の先駆けとなった1977年の『小町風伝』にはまだセリフが残っている。「残っている」といったのは、もともと老女の幻想(自分を絶世の美女・小野小町と思いこんでいる)を描いた作品には、最初は独り言のようなモノローグが綴られていた。実際に矢来能楽堂で上演された時、セリフはすべてカットされ、そこから「沈黙劇」が始まったのだ。六百年の伝統と歴史を持つ能舞台で発語するには、自分の書いた日常的な言葉はあまりに軽すぎる。演出家はそう実感し、劇作家の言葉を引き下げた。つまり演出家の判断が劇作家の創造を上回ったのだ。
言葉の位相を考えさせられる興味深いエピソードである。紙に書き付けられた言葉はまず黙読される。然るのちに音として空間に放たれ、言葉の持つ身体性が顕在化する。演劇の生命線はまさにこの瞬間に生成するのだ。これを統括するのが、他ならぬ演出家である。太田氏の「テクスト」には、こうした劇作家-演出家の葛藤を孕み、一種の「演劇論」として読むことも可能だ。事実、ト書きには作者の思考の痕跡が刻まれ、舞台上の単なる進行に留まらないユニークな演劇論になっている箇所が少なくない。
このテクスト集に集められた二十六本のテクストの半数以上は、彼が主宰していた転形劇場に書き下ろされたものである。つまり集団性を基盤とした上演テクストだ。太田は劇団を主に実験的な作品を探求する場と考えていたのだろう。そこから「老態」シリーズや「沈黙劇」、「駅」シリーズなどが誕生した。
それとは別に、二人の対話劇も多く書かかれている。この言葉や劇的文体にも注目したい。中村伸郎、岸田今日子という名優に別々の時期に作品を提供してきたもので、劇団に向けて書かれた台本とは明らかに異なった成立事情がある。これらの作品は、戯曲としても読み応えがあり、上演テクストとして今でも十分可能である。
例えば、岸田今日子と瀬川哲也出演の『更地』では、初老を迎えた夫婦がかつて住んでいた家を訪れ、すでに跡形もなくなった空き地(それが更地の含意だろう)で思い出話に耽る。かつてあったこと、子供たちを苦労しながら育てたこと、それらを回想しながら、時間は現在に召喚される。そこで彼らはもう一回やり直してみようと、今までのことをリセットする。その時、夫は「なにもかも、なくしてみるんだよ」と妻に呼びかけ、更地に白い布をかぶせる。実際にこれが上演された湘南台市民シアターの舞台では、奥から巨大なシーツが持ち出され、舞台が真っ白に覆い尽くされた。「なにもかもなくしてみる」とは宮沢賢司の言葉からの引用だが、夫婦間の生臭い時間が一気に取り払われ、これから何色にも染め上げることができる透明感溢れる実に見事なシーンとなった。
中村伸郎主演の『午後の光』は、老人が死んだ妻を思い出すシーンから始まる。そこに死んだはずの妻が登場する。現在と死後の世界を行き来する能の形式に近いものだ。しかし夫婦間の思い出話は「ややこしい」。記憶はあいまいであり、現在は過去を都合よく思い出そうとするからである。
劇作家・太田省吾さんが亡くなられてから、早いもので一年余が経った。その追悼の意もこめて、この8月、金沢の前衛劇集団新人類人猿による『プラスチック・ローズ』(若山知良演出)が金沢芸術村で上演された。わたしはこの公演にさいして、太田さんについての短いレクチャーを行なったが、この機に彼の5冊の戯曲集と未収録作を集成した『劇テクスト集(全)』を読み直してみた。菊判で650頁を超える大著である。
まず、タイトルが「戯曲集」でなく、「テクスト集」になっていることに着目したい。 「戯曲」という文学性を否定し、上演に即した言語体としての「テクスト」を冠しているのである。これは生前の太田氏の意向に沿ったものだろう。さまざまな「引用」から成る「テクスト」には、オリジナルの言葉ではなく、すでに使われた言葉をもう一回織り込んでいくニュアンスがこめられている。もともと texture という単語には「織物」が含意 されており、多様な言語素材を縫い合わせていくことで、上演のテクストが立ち上っていくのだ。彼の最後の作品『→ヤジルシ』ではこれを「盗用テクスト」と称して、上演中に出典を明らかにしたこともある。
一時期、太田氏は、自分は「劇作家」なのか「演出家」なのか煩悶していた。ゼロから世界を構築していくのが劇作家だとすると、すでに「書かれたもの」をどう「読み直すか」が演出家の書く台本ではないか。つまりメタレベルで演劇の「再演劇化」を志向するのが演出家だというのが彼の考えなのだ。「新劇」による文学の立体化を否定し、集団の身体性に支えられた表現を志向した「アングラ演劇」では、言葉のあり方がまったく変わってしまった。それが60年代の「演劇革命」の内実だった。演出家が上演に即して書いた 「テクスト」では、舞台空間はセリフのみならず、多彩な演劇独自の言語、すなわち音響、照明、衣裳、美術、そして俳優の演技によって構成される。太田省吾氏の行き着いた「沈黙劇」というスタイルは、文字通りセリフのない、動きだけの劇である。これはト書きだけで記述された進行用の台本だ。
沈黙劇の先駆けとなった1977年の『小町風伝』にはまだセリフが残っている。「残っている」といったのは、もともと老女の幻想(自分を絶世の美女・小野小町と思いこんでいる)を描いた作品には、最初は独り言のようなモノローグが綴られていた。実際に矢来能楽堂で上演された時、セリフはすべてカットされ、そこから「沈黙劇」が始まったのだ。六百年の伝統と歴史を持つ能舞台で発語するには、自分の書いた日常的な言葉はあまりに軽すぎる。演出家はそう実感し、劇作家の言葉を引き下げた。つまり演出家の判断が劇作家の創造を上回ったのだ。
言葉の位相を考えさせられる興味深いエピソードである。紙に書き付けられた言葉はまず黙読される。然るのちに音として空間に放たれ、言葉の持つ身体性が顕在化する。演劇の生命線はまさにこの瞬間に生成するのだ。これを統括するのが、他ならぬ演出家である。太田氏の「テクスト」には、こうした劇作家-演出家の葛藤を孕み、一種の「演劇論」として読むことも可能だ。事実、ト書きには作者の思考の痕跡が刻まれ、舞台上の単なる進行に留まらないユニークな演劇論になっている箇所が少なくない。
このテクスト集に集められた二十六本のテクストの半数以上は、彼が主宰していた転形劇場に書き下ろされたものである。つまり集団性を基盤とした上演テクストだ。太田は劇団を主に実験的な作品を探求する場と考えていたのだろう。そこから「老態」シリーズや「沈黙劇」、「駅」シリーズなどが誕生した。
それとは別に、二人の対話劇も多く書かかれている。この言葉や劇的文体にも注目したい。中村伸郎、岸田今日子という名優に別々の時期に作品を提供してきたもので、劇団に向けて書かれた台本とは明らかに異なった成立事情がある。これらの作品は、戯曲としても読み応えがあり、上演テクストとして今でも十分可能である。
例えば、岸田今日子と瀬川哲也出演の『更地』では、初老を迎えた夫婦がかつて住んでいた家を訪れ、すでに跡形もなくなった空き地(それが更地の含意だろう)で思い出話に耽る。かつてあったこと、子供たちを苦労しながら育てたこと、それらを回想しながら、時間は現在に召喚される。そこで彼らはもう一回やり直してみようと、今までのことをリセットする。その時、夫は「なにもかも、なくしてみるんだよ」と妻に呼びかけ、更地に白い布をかぶせる。実際にこれが上演された湘南台市民シアターの舞台では、奥から巨大なシーツが持ち出され、舞台が真っ白に覆い尽くされた。「なにもかもなくしてみる」とは宮沢賢司の言葉からの引用だが、夫婦間の生臭い時間が一気に取り払われ、これから何色にも染め上げることができる透明感溢れる実に見事なシーンとなった。
中村伸郎主演の『午後の光』は、老人が死んだ妻を思い出すシーンから始まる。そこに死んだはずの妻が登場する。現在と死後の世界を行き来する能の形式に近いものだ。しかし夫婦間の思い出話は「ややこしい」。記憶はあいまいであり、現在は過去を都合よく思い出そうとするからである。
例えば、妻は夫にこう言う。「二人だけのことってのは、現実になかったことなのかもしれない」「だって証明できます? だれかに、あなた。あったんだって」((『午後の光』414~415p)二人の間だけで起こったことは、果たして現実なのだろうか。第三者が立ち会い、承認しない限り、そこで起こったことは確かめられない。 『夏の場所』でも、老人(中村)は興味深いセリフを言う。
男は女に言う<なぜおれを見る>。女は答える<だれかが、あなたに必要だと思って>。(461p)人間が自分の存在を承認されるのは、他者の視線によってである。それが「見られる」意義だ。太田のセリフは哲学的である。かつて古代ギリシアで哲学が誕生した時、思考はつねに問答として展開された。ソクラテスやプラトンの「対話」である。太田のテクストは、その「対話」に近い。だが太田がかの哲学者と違うのは、その後にこんなセリフを書き付けているからである。
「<必要なのは食いものだ、人間じゃない>なぜ、こんなセリフを吐いたのか。飢えているんだ、男は」(461p)老人の言葉は、対話を俗世の中に放り出す。なぜならこれは、思考の追求というより、<いま・ここに>自分たちが存在していることを確認する、一種の「ごっご遊び」が主眼だからである。それは、看護婦の視線によって明確になる。
「男、看護婦と老人へ目をやる」というト書きに続いて、「いいじゃないか、もうすぐ終わるんだから」(463p)と「ごっご遊び」の中断を告げるのである。他者が「見る」ことで、自分たちの存在を確認し合う芝居が断ち切られる。ここで「見る」ことは、現実に引き戻すことだ。逆にいえば、他人に見られていない間だけ、人は安んじて演じていられる。 今回、改めて太田テクストを読み直してみて、セリフやト書きのなかに「見る」という言葉が頻出していることを発見した。
例えば、「見つめる目を見る女」(『風の駅』356p)というト書きがあるが、いったいこれはト書きとして機能するのだろうか。人は他人の眼球に映った自分を見ることで、自分が見られていることを知る。こうして無限に反照し合う目と目のあいだに自己を確認できる。 あるいは『更地』では、イーゼル(画架)を家の窓枠に見立て、妻は「ね、見られましょうか」と夫に語る。『午後の光』でも老夫婦間で「覗く」シーンがある。 「見る」ことは存在の確認であり、他者を承認することだ。したがって彼の言葉はつねに存在に向けて放たれている。ただしそれは必ずしも「文学」的な修辞ではない。華麗な言葉、明晰な言葉を禁欲すること。そこに彼の言葉と文体の特徴がある。肉体や身体は見通しの利かない闇を抱えており、訥弁で盲目性の言葉こそがふさわしいからである。 太田省吾は「見る演劇」を提唱した。そのことが「劇テクスト集」で、初めて明確になった。まさにこれは演劇論を含んだ「テクスト集」なのである。