『わたしの戦後出版史』松本昌次(トランスビュー)
[劇評家の作業日誌](40)
この本の著者・松本昌次氏は、わたしにとってあまりに身近な方なので、書評の対象とすることに当初ためらいをおぼえた。だがここで語られている出版史や編集者の生き方は、わたし個人の事情や抑制をはるかに超えている。そこで極力私的にならないよう留意しつつ、この本を読んでみたい。
松本さん(以下、この呼称を使いたい)はわたしの父が創業した未来社に1953年入社し、30年余り編集や実務の仕事に携わった。その後、83年に退社して影書房を創設し、すでに25年を経て現在に到っている。編集者歴は実に55年にも及び、戦後文化の重要な書籍を数多く生み出してきた名編集者である。
この本の成り立ちは、二人の聞き手(上野明雄+鷲尾賢也)による氏へのインタビューがもとになっていて、雑誌「論座」で2005年10月から計21回連載された。名著の生れた背景や著者について、松本さんが自在に語り下したものだが、編集者である自分が「このような本を出すことに、いまなお若干のためらいがある」(348p)と「あとがき」で記している。たしかに昨今、名著のできる裏話が編集者によって語られることが多くなった。メディアの前線では、「編集者」こそが「主役」ではないかという見方すら出てくるほどだ。だがこういう考え方が出てくるのは、80年代以降、情報化社会が全般化してからであり、松本さんは、そうしたタレント編集者とは無縁な、言うなれば「むかし気質」の編集者なのである。それは「生涯現役編集者」という帯の言葉が象徴するように、あくまで黒衣(くろご)に徹しようとする自身への線の引き方に表われる。
松本さんは現在、影書房で自撰による「戦後文学エッセイ選」を編集している。自分の関わった著者のエッセイをもう一度編んでみようという夢のような企画だ。おそらくそれこそが50有余年の自分の仕事への一種の総括なのだろう。その名前を列挙してみると、彼がいかに多彩で綺羅星の如き著者と交わってきたかがわかる。花田清輝、木下順二、埴谷雄高、竹内好、上野英信、長谷川四郎、武田泰淳、杉浦明平、富士正晴、野間宏、島尾敏雄、堀田善衛、井上光晴の13人。いずれも戦後文学や芸術、思想の巨人であり、その一癖も二癖もある顔触れから、彼の好みの傾向も見えてくる。
松本さんは自らの編集のポリシーを「同時代の日本文学・思想関係の本を中心に出版したい」(35p)と簡潔に語っている。最初に企画したのが、花田清輝の『アヴァンギャルド芸術』(1954年10月刊)。すでに花田は戦後まもなく真善美社から『復興期の精神』と『錯乱の論理』、月曜書房から『二つの世界』を刊行していた。だがこの出版社がいずれも倒産したため、花田は“出版社つぶし”の異名を頂戴し、どの出版社も敬遠していた。その間隙を縫って、松本さんは氏の著作刊行を実現したのだ。同じ真善美社から本を出していた埴谷雄高氏の著作も、以後、松本さんの手によって世に出されることになる。無名の新興出版社だからこその見事なゲリラ戦法だ。どんな時代にもこうした出版社が存在するが、1950年代から60年代にかけての未来社は、まさにゲリラ出版社の急先鋒だったのだろう。
埴谷氏の本は当初、まったく売れなかったという。だいいち書名が難解で読みにくい。『濛渠と風車(ほりわりとふうしゃ)』『鞭と独楽(むちとこま)』といったように、ルビなしでは読めないタイトルだ。だがこの『 と××』というスタイルをかたくなに守り続けることで定着させ、コンスタントに刊行される評論シリーズとなった。埴谷氏の本が突然売れるようになったのは、60年安保前後の学生運動の勃興期に当たる。スターリズム批判の先駆者として、政治青年たちが埴谷氏に俄然注目しはじめたからである。今となっては、大出版社で全集が刊行されるほどの大著者たちだが、その出発点は順風満帆とはほど遠く、かくも困難な道程だったのである。
未来社は、当時無名だった劇作家・木下順二の『夕鶴』の刊行が端緒となった。この 「創業の精神」、つまり無名だが本物の著者を発掘し、「本当につくりたい本だけをつくる」という志は、松本さんの編集魂にきっちり継承された。
この花田、埴谷両氏への松本さんの編集者としての思い入れは格別で、花田の本は生前18冊、埴谷に到っては実に30冊を超えている。一人の編集者が一人の著者の本をこれだけつくることは出版界の常識では考えられない。「自分が惚れ込んだ著者の本を作り続けることこそ、編集の仕事の意味がある」(72p)というセリフをこともなげに語る松本さんの「すごさ」に聞き手は絶句するしかないのである。
編集者の仕事として、松本さんは「異質な人たちをつないでいくこと」(82p)をあげている。情報を伝達する一種のメディア機能だ。丸山真男の名著『現代政治の思想と行動』の編集秘話のあいだに、他ジャンルとの知的連帯、知的交流を求めた氏の一面を紹介している。吉祥寺にあった丸山宅から歩いて数分先にたまたま埴谷氏の自宅があったことから、両者を結びつけ、対話の場を用意した。二人の対談が未来社が刊行していた「民話」に載ったのも、そうしたいきさつからだった。
その丸山氏にブレヒトをすすめ、ついに留学中にドイツ語で完読させたエピソードには驚かされた。また花田氏に面識がなかったが注目していた国文学者・広末保の仕事ぶりの最新動向を伝えるなど、人と人を結びつけるメディア(媒介)の役割を使命と考え、実践していたことも松本さんならではのことだ。最近の編集者は経費削減のためか、印刷所の職人の仕事を肩代わりしている、そんなことをするくらいなら、もっと企画のために資料を集めたり、勉強することはいくらでもあるのではないか--松本さんの現在の本づくりの現場への批判は手厳しい。
実際、松本さんは花田氏を訪問する時、著者の書いたものはもとより、最近の文芸雑誌まで目を通し、相当の覚悟をして出かけたという。氏はたとえ自分より年少の若者であっても対等に付き合う書き手だからである。編集者がいかに勉強し、著者に鍛えられたかを知るエピソードだ。この理想は現在の編集者に当てはまるだろうか。
「断簡零墨」は松本さんの好きな言葉で、「書かれたものの不完全な切れ端」といったニュアンスだが、覚え書きや短い雑文に到るまですべてを集めるという編集方針は、彼の執念、情熱の過剰なまでの発露だろう。だが今ではマニアックで不要の謗りを免れかねない。このような仕事のやり方が可能となったのは、1960年代までの文化や芸術に見合っていたのではないか。実際、この本で語られている著者および書籍の大半は1950年代、60年代の産物であり、松本さんの編集者として「惚れ込んだ」(これも本書のキーワードだ)著者はほぼこの時代に限定されている。これは「名物編集者」がある時代とともに生きたことの証しであるとともに、次の時代への見通しを持ちにくかったことの逆証でもあろう。ないものねだりを承知で言えば、70年代以降の文化や芸術を彼がどう考えたのかについて知りたかった。
わたしが成長過程にあった70年代、さらに社会に出て体験してきた80年代の文化や芸術、とりわけ演劇の活動は、松本さんにとっては「くだらない」ものでしかなかったのだろうか。だとしたら、それはいささか偏狭ではないかとわたしは思う。どんな時代でも現実に妥協せず、迎合しない著者や芸術家は存在する。だとすれば、時代に特定されてしまうことは、なんとも惜しい。
「現役」であり続ける松本さんの若さは、名誉を求めず、決して成り上がろうとせず、ただ反骨のみを糧に生きてきたからだろう。それも「清貧」といって肩肘張ることもなく、自然体の自由人であることをモットーとしてきた。この生き方も小出版社だからこそ育みえたものではなかったか。マイナーに徹すること、商品主義の手前で隙間を見つけ、それを仕事とすること。戦後のさ中に成立した「文化としての出版」は1960年代のある時期まで、こんなやり方で成立してきた。聞き手の編者たちが問う「なぜ多くの出版物に活気があったのか。生活が貧しくても、なぜいきいきとした編集・出版が可能だったのか」の解答は案外、ここらあたりにあるのだろう。
松本さんが付き合ってきた職人気質の印刷所の社長、世間的名声を軽蔑して一冊の写真集もつくらなかった写真家、著者の家をせっせとつくり続けた名物大工等々、書物の裏を担った人たちへの言及も忘れがたい。ほんの一握りの成功した著者と彼らが共同して、ひとつの文化空間を形づくっていたのだ。それがこの時期、奇跡のように織り成された。
1960年代は高度経済成長、国際化にともなって、日本が青春時代を終えた時期に相当する。その意味では、松本さんがもっとも楽しく仕事が出来た時期、「戦後」から60年までは日本の青春期そのものだったのかもしれない。