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『演劇のポ・テンシャル(エクス・ポ テン/ゼロ)』(HEADZ)<br>『ニッポンの思想』佐々木敦(講談社現代新書)

演劇のポ・テンシャル(エクス・ポ テン/ゼロ) ニッポンの思想

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「<劇評家の作業日誌>(50)」

 これは雑誌なのだろうか、それとも単行本なのか。書店の演劇書コーナーでこの分厚い本を手にした時、わたしは一瞬戸惑いを覚えた。そして一度棚に戻したが、ここで買わなければ一生手に取ることもあるまいと思い直し、レジに向かったことを覚えている。

 文庫本サイズで600頁を超える、まるで豆タンクのようなハンドブックだ。しかも縦組みと横組みが組み合わされて、それぞれ455頁と161頁となっている。薄いピンクの表紙に白抜きでタイトルが記されているが、なかなか実態がわかり辛い。どうやら、批評家佐々木敦が編集する雑誌「エクス・ポ」が本体で、第一特集「演劇のポ・テンシャル」と第二特集「雑誌のポ・テンシャル」が合体したもののようだ。少しずつ正体が掴めてきた。

 本書は佐々木らによる現代の小劇場=ニューウェーブの劇作家・演出家たちへのインタビューによって構成されている。その名前を列記してみると、――前田司郎、松井周、岩井秀人平田オリザ、中野成樹、多田淳之介、タニノクロウ飴屋法水、下西啓正、丸岡ひろみ、相馬千秋、岡田利規宮沢章夫古川日出男等々。これにインタビュアーを含むライターたちのフリートークが組まれている。要するに、すべてが「語り」なのだ。ここから現在の演劇の一断面が見えてくることは確かで、現在の最新鋭の演劇地図が浮かび上がってくる。

 ここに登場する演劇作家は、2000年代に台頭してきたサブカル系の小劇場の担い手たちである。蜷川幸雄野田秀樹坂手洋二、永井愛、三谷幸喜といったメジャーな演劇シーンで活躍している演劇家たちは登場せず、一般の読者には馴染みの薄い名前が多いだろう。彼らはもっぱら自分たちの「セカイ」を語る。彼らは1970~80年代生まれで、(例外は宮沢、飴屋、平田)この世代の持つ空気が漂っている。

 本書を貫く主筋はこうだ。1990年代に平田オリザによって提唱された「現代口語演劇」がゼロ地点にあり、その後、平田が運営する駒場アゴラ劇場に集結したより若い世代が、この「口語演劇」をさらに展開していった。佐々木はチェルフィッチュの『三月の5日間』に出会ったことを端緒に、ここ2,3年熱心に小劇場(もっと正確に言えば、アゴラ劇場周辺)を見て回り、それを系譜的に綴ろうとしたのが、この特集だ。最近の若い才能が「アゴラ劇場」を母地に登場してくるというのは、否定できない事実だろう。したがって2000年代に入っての流れをマッピングするのが本書の狙いであり、そのために歴史化に向かう一歩手前で、パノラマ的に人材を洗い出そうとしているのである。今から5年前、「ユリイカ」で「この小劇場を観よ!」という特集があったが、演劇が外側からどう見えているのかを知るには、絶好のサンプルになる。

 わたしはこの雑誌の特集「演劇のポ・テンシャル」とともに、佐々木敦著『ニッポンの思想』にも触れてみたい。なぜならこの「演劇特集」の背景には、昨年7月に刊行された『ニッポンの思想』があるからだ。同書は80年代以降の思想家(彼はそれを必ず「思想」家と書く)を8人に絞り込み、彼らの著書を丁寧に読み解いていくことで、ここ30年ほどの思想の流れを跡付けていく。実にコンパクトで役に立つ案内書だ。佐々木は浅田彰の『構造と力』に驚愕し、中沢新一の新著が出るたびに買い求め、柄谷行人蓮実重彦の文章に眩惑され、90年代になって、大塚英志福田和也宮台真司の動向に目を配り、そして2000年代の東浩紀の独走状態を、ちょっと距離の離れた場所から見ていた。そんな体験はわたしにもある。佐々木はわたしより10歳年少だが、読書体験、共時的な時代の経験ではまったく違和感がない。ただ差異があるとすれば、80年代で、当時の未曾有の「消費時代」をどう潜り抜けたかによって、その後の針路が微妙に異なってきたように思われる。

 「エクス・ポ」の演劇特集は、2000年代の思想の流れに相当するのか、東とほぼ同世代か、その後続世代が扱われ、その対応関係を編者は探ろうとしている。そして、80年代の閉塞感を破る端緒を、ゼロ年代の小劇場に見出そうとしているようだ。両者を合わせ鏡のように読むと、そんな連想が働き、相互関連性が見えてくる。

 佐々木は60年代の「演劇革命」の最後の余燼に触れており、寺山修司天井桟敷の舞台に辛うじて間に合った世代だ(寺山は83年に没している)。唐十郎の紅テントにも熱心に通っていたようだが、80年代になって、野田秀樹鴻上尚史らが台頭してくると、ちょっと「軽っぽい」感じがして、劇場から遠ざかったと告白している。おそらく、俳優の身体の生っぽさや80年代の小劇場によく見られた「同調強要」に耐え難いものがあって、いわゆるバブルっぽい劇的高揚に付き合いきれぬものを抱いたのだろう。それから20年の空白を経て、再び現在の小劇場に出会った。それは、対象へのクールな距離感があり、未来に希望を持たぬニヒリズムと、現状を受け容れるリアリストの視座をそなえている。そこに閉塞した状況の突破口があるのではないか、というのが佐々木の視点だ。

 「青年団大人計画がなければ出てこなかったであろう人たちが沢山いて、それが今の演劇を支えている状況をゼロ年代になって生んでいる」(117p)というのが佐々木の基本認識である。むろん、松尾スズキは小説も書けば、映画もつくる才人であり、エッセイストとしても活躍し、商品になるサブカルチャーのスターだ。対するに、平田は商品にはなりにくい分、大学教授や内閣官房参与といった「権威」になることで、その対極にいる。これは佐々木が『ニッポンの思想』で分析したように、売れなきゃ駄目だという論理と、有名になって成功しないと駄目だというゼロ年代の幅と相即するものだろう。

 佐々木は『ニッポンの思想』で、思想家を、世界を変革するか、世界を記述するかの2つのタイプに分けて考えている。80年代までの思想は、マルクス主義に代表されるように、世界の変革をめざすものであった。だが消費社会とバブルを経たニッポンは、もはや理想とするモデルが持てず、現状を受け容れるほかなくなった。そういう認識は保守的とも映るが、そこから出発するしかないではないかという諦念は否定しがたい。したがって対象にある距離感を持つことを必須とする。それは二項対立が終焉した後の、ある種の態度とも解すことができる。その切断を「ニッポン」というカタカナで表わした。1984年に川村毅と第三エロチカは『ニッポン・ウォーズ』を上演したが、「日本の戦争」ではなく、あくまで「ニッポンのウォー」だった。80年代を代表するこの舞台は、まさにそれ以前と以後を切断する記念碑的な作品だったのだ。先に、佐々木とわたしの差異は80年代の経験にあると記したが、ここまでは彼とわたしの認識はほぼ合致する。

 では2000年代の切断はどうか。

 佐々木はインタビューで、若い演劇作家たちにさまざまなことを聞き出すが、率直にいえば、自己の劇世界を語る彼らのボキャブラリーはそう豊かだと思えなかった。むしろ、インタビュアーの質問の言葉に、わたしは興味を惹かれた。あるいは、年長の宮沢章夫の後続世代への危惧や、プロデュースする側の、若い世代の「狭さ」への苦言の方が、わたしにはよく聞こえてきた。例えば相馬千秋は言う。

「すごくベッタリとした日常をべースとした芝居って、それはそれで同時代の身体・言語感覚で、我々目線のリアリティにすごくフィットするものだから、心地良いんですけど、でも、やっぱそれだけだと、演劇ってその後滅んじゃうと思うんですよ。」(373p)

 実は編集者である佐々木もそれを薄々感じ取っていたのではないか。ただし、「世界を記述する」側に身を寄り添わせている(?)佐々木にとって、それをあからさまに言うことは避けている。わたし自身は佐々木の分類でいうと、「世界を変革する」側にいると思うので、2000年代の保守化や「生き残り」を最優先するリアリズム現象に対して、もっと懐疑的になってしまうのだ。 

 これ以上は書評という枠を超えてしまうので別稿を必要とするが、ゼロ年代の動向を探る上で、さまざまな議論を提供してくれる特集だった。


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