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『家族の昭和』関川夏央(新潮社)

家族の昭和

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文芸作品にみる昭和の家族のうつろい


「二〇〇八年は平成二十年ではない。昭和八十三年だ。あえてそういいたい昭和人である」と著者の関川夏央は言う。その彼が、昭和戦前から昭和戦後へと移り変わっていく家族像を、小説、テレビドラマ、映画の中に探ってみた。

題材となっているのは、向田邦子『父の詫び状』『あ・うん』吉野源三郎『君たちはどう生きるか』幸田文『流れる』『おとうと』鎌田敏夫金曜日の妻たちへ』『男女七人夏物語』など。

八十三年間の「昭和」には戦争が挟まっているが、それぞれの作家によりそうことで、むしろ戦前・戦後の区切りを飛び越えようとする。歴史の切断はむしろ男子的態度であり、親から受け継いだものを自分の核にするのが、戦前生まれの女性の生き方だった。それが昭和の家族を支えてきたという思いが随所に出ている。私自身、読んでいて戦前生まれの身内のことがしきりと思い出されたものである。

向田邦子のところで描かれるのは、彼女と父親との関係だ。向田の父は大手保険会社のサラリーマンである。祖母が亡くなったときに弔問にきた社長に父は、「お辞儀というより平伏」と思える態度をとる。「私達に見せないところで、父はこの姿で戦ってきたのだ」と向田は書く。つまり彼女は平伏する父を「軽蔑」しない。日ごろ家では威張っている父の、掌を返したような態度を、「卑屈」とみなさず受け入れる。男子だったら、ましてや戦後育ちだったら、と著者は問う。

向田は癇の強い性格を父から受け継いだが、その遺伝を恨まなかった。戦後の民主主義と個性尊重主義で育った世代のように、なにごとも親のせい、他人のせいにしなかった。それが読者に静かな勇気を与え、戦前という時代を知らない者にも懐かしさをもたらした、と分析する。

幸田文もまた厳しい父、幸田露伴に家事をみっちりと仕込まれて育った。そして父が亡くなるとその思い出を書き、これが思いのほか好評で執筆をつづけるようになる。だが頼まれるのは父の思い出ばかり。ついには「私は筆を絶つ」という談話記事を新聞に発表する。

「自分として努力をせずにやったことが、人からほめられるということはおそろしいことです。このまま私が文章を書いてゆくとしたら、それは恥じを知らざるものですし、努力しないで生きていくことは幸田の家としてもない生き方なのです」

「努力せずにしたこと」とは言うものの、もちろん書く努力はしているのである。だがその努力は本物の作家たちの努力、その死まで自分が見届けた父の努力には較べるべくもない。それが身にしみているだけに、いい気になれないのだ。

やがて文は芸者置屋の住み込み女中となり、その体験をもとに小説『流れる』を書く。父に仕込まれた家事や暮しの技術には自信があった。それがどれ程のものなのか、腕だめしのような思いで玄人の世界に飛び込み、そこで力を認められる。

小説の主人公梨花は文自身がモデルだが、梨花置屋の女性とは生活観がまったくちがうにもかかわらず、互いに認め合う。単に生命力という言葉では済まされない、生きる技量とも言うべきものが讚えられ、細やかに描写されている。『流れる』の醍醐味はそれだと改めて思った。

第3部で取り上げる『金曜日の妻たちへ 3 恋におちて』では、「回想」が物語の駆動力となっている点に着目する。たかが三十代後半の男女が、二十代の出来事に回顧し、それに翻弄される。「平和と退屈ゆえに「過去をひきずる快楽」に身をゆだねているだけではないか」という指摘が、「金妻」に漂うだるいムードを言い当てている。「回想」に溜めがなく、また「回想」される対象もうすっぺらいのだ。

それに較べると、『男女7人夏物語』に出てくる人たちは「回想」をしない。過去にとらわれず、現在を楽しく生きようとする爽やかさが、観る者を惹きつけた。だがその続編の『男女7人秋物語』では、一年前の出来事が早くも回想の対象となっている。

回想のスパンがおそろしく早く、のみならず「介入してくる「過去」が「昭和戦後の貧乏臭さ」をまとっている」のである。ここで言う「貧乏臭さ」とは、「嘘臭さ」「成金趣味」と同義語だ。「パティオ」「ボジョレ・ヌーボー」「美食ブーム」など、実体のないあぶくのようなものに乗せられて人間関係が右往左往する。昭和59年に出た渡辺和博の『金魂巻』は、その傾向をマル金マルビに分けて揶揄したが、それがまじめに受けとられたところに、すでに世間の自意識のなさが出ていた。

向田邦子の作品も、幸田文の小説も、「回想」を経由した創作である。無から何かを構築したものではなく、自分の体験や身に起きた出来事が下敷きになっている。そこには当然ながら振り返る行為が介在しているが、「貧乏臭さ」はみじんもない。矜持が際立っている。つまり金のあるなしではなく、金まわりのよさを誇示する態度が「貧乏臭い」のだ。

向田邦子の『あ・うん』の中に、「おとなは、大事なことは、ひとこともしゃべらないのだ」という言葉がある。著者はそれを引いて、「家族を維持するには緊張感が必要だ。秘密が必要だ。そして、それを守ろうとする努力が必要なのだ、と向田邦子は逆説的に語っている」と述べる。

まったくその通りだ。男女が一緒になればとりあえず家族は生まれる。簡単なことだ。むずかしいのはその家族を経営していくこと、そのための緊張感と距離を維持することである。それを欠いたら関係は破局にむかう。現代の家族の崩壊はその結果であるのだろう。

詩人井坂洋子の母親は、実践女専で向田邦子の二年先輩だったという。その井坂の言葉を著者は書き留める。

向田邦子と母親の差は、才能を別にすれば、それほどないとも思える。二つの像を、表と裏として貼りあわせれば、ほぼ完璧に当時の女の人の原型ができあがる。

私には頭のあがらない、勤勉でこわい原像である」。

向田邦子と同世代の母を持つ私は、この言葉に深くうなずく。だれかのせいにしない生き方。戦前の女性が示す強さはそれに尽きる。保守的かもしれない。それがミニ天皇制のような家父長制を温存してきたという批判もあるだろう。だが、彼女らの矜持が昭和の家族像を支えてきたのはまぎれもない事実であり、そのことに粛然とするのである。おそらく著者も同じ思いにちがいない。

ここに取り上げられているのは、サラリーマンと作家の家庭の家族像だが、夫婦そろって家業をおこなう商家や農家の家族像にも目線を延ばしたら、また別の女性像が浮かび上がってくるだろう。興味の尽きないテーマである。

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