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『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』内山節(講談社現代新書)

日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか

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「人の身体と生命を介して記憶する「みえない歴史」」


ずいぶん前にキツネについて調べていたことがある。といっても生きているキツネではない。お稲荷さんのキツネである。社の前に座っているキツネの石像に惹かれて写真に撮るうちに、それにしてもどうしてキツネなのだろう、と興味をもったのだ。取材するにつれて、東京都心でもキツネに化かされたり、キツネを神聖視する話がごく最近まであったのを知り、驚いた。

というわけでタイトルにそそられてこの本を手にとったのだが、前書きを読んでキツネがテーマではないらしいとわかった。1965年を境に日本全国から人がキツネにだまされる話が一斉に聞かれなくなった。それはどうしてか、1965年に日本の社会の何が変わったのか、その謎を解いていきたいとある。

日本社会の変化を象徴するものとしてキツネが挙げられているのであり、テーマは日本人の自然観の変化なのである。ちょっと拍子抜けだったが、それでも最後まで読み通したのは、自分のペースで執拗に問いつづける著者の「声」に惹かれたからだった。

日本人がキツネにだまされなくなったのは、高度経済成長を遂げた1965年を境に人と森林との関係が変化したからではないか、という仮説はだれでも思いつくものだ。だが、その凡庸な問いを溜めつすがめつして、近代化によって何が変ってしまったのか、変化の中味を探究していく。

本の知識を動員して引用などをちりばめつつ、教養主義的に書く人は多いが、著者はそうしない。歴史、民俗学、哲学、人類学、自然誌などを縦断しながら、また随所に群馬の山里に暮している著者自身の体験などを織り込んで、自分の言葉で語っていく。わが意を得るとことがたくさんあって、こういうと大変おこがましいが、まるで私自身が書いているように錯覚したほどだった!

人の歴史は「直線的な歴史」と「みえない歴史」とで成り立っていると説く。「直線的な歴史」とは歴史を発達史とみなす考え方で、近代社会の矛盾に目をむけたマルクス主義経済学の登場によって生み出された。国民国家と資本主義を肯定的にとらえる側と、批判的にとらえ側とに分れるが、どちらも歴史を発達史として語る点では変わりがない。

では、「みえない歴史」とはどんなものか。これは人と森林が結びついていて、死者の魂が森に還り、自然と一体になって村の神になるという歴史である。これは発展とか、発達とか、乗り越えていく、というような発想とはかけ離れている。人がキツネにだまされてきた歴史も、この「みえない歴史」のひとつなのではないかと述べる。

「直線的な歴史」は知性を介して認識されるが、「みえない歴史」はそうではなく、身体で再生される記憶や、生命それ自身がもっている記憶などで成り立っており、たえず受け継いでくれる人を探す。だからこの歴史は発展的にではなく、循環的に進んでいくことになる。

この歴史の対比を読みながら、思いだしたことがあった。かつて稲荷信仰を調べていたときに、なかなか本質をつかみとれずに往生した。いくら稲荷信仰の解説書を読んでも腑に落ちないことだらけだったのだ。

稲荷信仰は田の神としてはじまるが、社会が変化する(直線的な歴史でいえば「発展する」)につれて担うものが変わってくる。中世期には鉄を扱う鍛冶の神になり、江戸期には商売繁盛の神になり、とくに芸能者や三業関係者の信仰を集めるようになる。さらにこれに陰陽師が絡むようになると、複雑怪奇でとらえどころがなくなっていく。皮をむいていけば自然神にたどりつくのだが、その後の姿はまるで人間の欲望のカタマリのようである。

これは自然を崇拝する「みえない歴史」と経済優先の「直線的な歴史」が合体していった結果なのではないだろうか。「みえない歴史」は「直線的な歴史」から切り離されて消滅の一途をたどるわけではない。自然との関係が絶えてきたいまも、「直線的な歴史」の裏にコバンザメのように張り付いて、したたかに生き長らえているのではないか。わたしたちの生活のさまざまな場面に、ふたつが重なり、絡み合った姿が見出せるように思う。

稲荷信仰ではキツネは神様ではなく神様のお遣いであると説く。だが、信仰する人の頭の中ではそれがごっちゃになっていて、キツネ=神になっている感がある。これもふたつの歴史の融合と見ることができるように思う。

五来重の『稲荷信仰の研究』によれば、稲荷神社の祀られているのは古墳だった場所が多く、キツネの巣穴になっている例がよくあるという。昔の人々は死者の祀られた場所に出入りするキツネを見て、彼らが霊的世界を行き来している特別な生き物に感じられたのではないかと書いている。

キツネは稲荷神のお遣いであるという考えは、宗教教義としての整合性をもたせるために後になってでっちあげたことかもしれない。昔の人々にとって、霊的存在にヒエラルキーはなく、ただ素朴に崇め畏れたはずである。いまだってお稲荷さんにイワシや油揚を供える人の心の中に、キツネと神さまの区別はない。なにかに祈りたい一心で頭を垂れるのだ

お稲荷さんを追いかけていた二十年前にこの本に出会っていたら、もう少し頭の中が整理されたかもしれない。稲荷信仰の教義に振り回されて、ついに匙を投げてしまったあの頃を、無念さと懐かしさが入り交じった思いとともに振り返った。


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