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『SNOWY』萩原義弘(冬青社)

SNOWY

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「桜花に似た雪のはかなさ」

桜が散りだす時期にこれを取上げるのは季節的にミスマッチかもしれないが、この雪の写真集を見ていて、桜に通じるものがあると思った。雪も桜も撮るのにむずかしい対象である。雪も桜も白くて、質感や量感が出せないとただの空白になってしまう。しかもそれを目の前にしたときに見る人の側にわき起る感慨や思いが深くて限りない。やっぱりホンモノを見るほうがいいと言われては、写真の敗北なのだ。

著者は1981年、夕張新炭鉱の事故をきっかけに全国の炭鉱を訪ね歩くようになったという。ここに収められているのは、冬場に炭鉱や鉱山跡を訪れたときに目にした雪の光景だ。建物は廃屋となってかなりの時間がたっている。窓は割れ、壁は崩れ、天井には穴が開き、そこから吹き込み降り積もった雪が思いがけないフォルムを生み出している。

表紙になっているのは、窓の隙間から吹き込んだ雪が下の台に溜まり、ある時点にそれが決壊して床に雪崩れていったありさまを写したものだ。静止しているのに動きがある。重さと軽やかさ、繊細さと大胆さなど、相反するものがせめぎ合う緊張と躍動を見せている。こんなにもリアルでしかもユーモラスな雪の表情ははじめて見た。

廃虚の内部に生えている木に雪が積もっているショットもある。かぼそい枝が雪化粧してクリスマスツリーのようだ。はじめから木が植わっていたわけがないから、割れた窓から飛来した種が発芽し成長したのだろう。長い時間の果てに目の前の風景があるのがわかる。

置き忘れられた椅子に積もった、つきたての餅のような丸みをおびた雪。ワンカップ大関の口をおおう輪っか状の雪。箱の縁に載っている布のように柔らかく垂れ下がった雪。どのフォルムも風や冷気や太陽熱や雨や重力など、さまざまな要素の微細な組合せによって誕生している。どれひとつとして人の手で再現することは出来ない。おなじ条件が繰り返されることはないから、雪自身にだって二度と同じものは作れないだろう。

冬が訪れるごとに密かに生まれては死んでいく形の美しさ、楽しさ、おもしろさに、写真家は息をひそめてシャッターを押す。興奮を抑えて撮っているのが伝わってくる。雪を撮るのに粗っぽい行動や興奮は禁物だ。歩き回れば足跡がつくし、不用意に動けばフォルムが崩れる。自然と思慮深くなり、いとおしいものを撮るような態度になる。

雪の空間は人の出入りに敏感で、自分以前に人が訪れているかどうかが一目でわかる。これらの写真には人の跡がひとつもなく、たったいま現われでたような初々しさが立ちのぼり、最初の発見者が写真家であることが強い印象として心に刻まれる。彼がカメラを向けたからこそ写真になって残っている、もはや存在しないものの姿。雪の遺影なのだ。

考えてみれば、写真に写されている物象の最初の発見者は写真家であるというのは、すべての写真に言えることだ。いま「私」の目の前にあるパソコンだって、窓を開けたときに見える外の風景だって、写真に撮った瞬間、それは「私」が目撃した取り換え不可能な時空の写真となる。

けれども、ふだんは写真を見てそんな感慨にふけることはない。本当は二度とおなじものは写せないにもかかわらず、また撮れると思ってしまう。複雑な条件の組合せによっていまこれがこのように見えているとは、だれも考えないのである。だが、これらの雪の写真はそれを痛切に感じさせるのだ。この形がもう二度とこの世に現れないことを。この写真の中だけでしかもう見ることができないということを。

一瞬の輝きを放つものに写真家は魅了される。彼らが桜を撮り、花火を撮るのはそのためだろう。雪ははかなさが目に見える形になった最良の例だが、雪を撮った写真は多くあれども雪のある風景に留まっているものがほとんどで、雪のフォルムやそのはかなさを、この写真集ほど意識させられることはない。

炭鉱町は特殊な場所である。操業中は全国から人が集まり、病院や学校や娯楽施設が造られて山間に町が出現するが、閉山と同時に人の去った建物だけが残される。訪れる人もなく、建物は朽ちるにまかせられ、降り積もった記憶がゆっくりと溶解していく。そういう場所との出会いがなければ、この写真集は生まれなかった。雪を撮りにいったのではなく、訪ねていった先に雪が待っていたのだ。雪が町の記憶のメタファーのようにも見える。


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