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『MARIO GIACOMELLI - 黒と白の往還の果てに (新装版)』ジャコメッリ,マリオ(青幻舎)

MARIO GIACOMELLI - 黒と白の往還の果てに (新装版)

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「時間の痕跡こそが彼を魅了した」


写真が力を発揮する領域には、大別してふたつある。ひとつは肉眼では見えにくい対象を見せること。もうひとつは時間を停止させて人の記憶や意識に働きかけること。前者の典型は軍事目的で撮られる空撮写真で、後者は家族が撮るスナップ写真だ。

マリオ・ジャコメッリが選んだのは後者のほう、記憶に関わるの領域を探求した人である。コントラストの明快な、抽象と具象の狭間を行き来するようなモノクロームのイメージ群は、彼の生きた時代を考えると、とてもオリジナルな行為だったように思える。

1925年にイタリアのアドリア海側にあるセニッガリアという小さな町で生を受け、生涯そこで暮らした彼が、写真に手を染めたのは1950年代のはじめ、28歳のときだった。最初に撮ったのはホスピスの写真で、それを長いこと継続している。

それらの写真を見て感じるのは、さまざまなタイプの写真が混在していることだ。人物をはっきりと見据えて撮ったものもあれば、部分だけを切り取ったものもあるし、ブレて像のはっきりしないものもある。写真をはじめてすぐの頃は、だれでもこういう試みをするものだ。コピー機でコピーするのに似て、イメージの操作を機械にゆだねられるので、突飛なものが生まれるのがおもしろい。けれども、つづけるうちに凹凸はならされ、考えが整理され、スタイルを確立する方向に進んでいく。

ところが、ジャコメッリの写真には、そうした統一感が最後まで見られないのである。ある写真ははっきりした対象を追い、別のあるものはよくわからないものをとらえ、仕上げ方も抽象化されていたり具象のままだったり、文芸でいえば文体が混在しているような状態がずっとつづき、そのでこぼこぶりが実に魅力的な生命感を発しているのだ。

どうしてこのような方法をとったのか、あるいはそのようにつづけることが可能だったのか。写真を生業にするならスタイルの確立は必須である。ドキュメント以外の路線をいくなら、なおさらそうだ。撮る対象ではなく、それをどうとらえるか、というイメージ力で打ってでるしかないのだから。

ジャコメッリがそうした考えを無視して異端の道を進めたのは、彼がほかに生業をもっていたことが大きいだろう。13歳で印刷工となり、その後自分の印刷所をもち、生涯それにたずさわりながら写真をつづけた。土日に撮影に出かけ、日曜夜に暗室にこもるという習慣を、終生維持しつづけた。

絵を描いたり立体を作った時期もあったようだが、最終的には写真が残ったというのも、印刷と無関係関ではないのかもしれない。印刷は物となった文字=活字の残した跡であり、写真もまた光がうがった事物の影だ。痕跡こそが、彼のイマジネーションを刺激したのだろう。

撮影と暗室は、ふたつのまったく異なる時空へと写真家を連れていく。

現実の時間が進行する撮影の場では、眼前で繰り広げられるイメージにシャッターを切るという肉体的快感に没頭することになる。絵画にはないこの側面を、ジャコメッリは気に入っていたはずだ。と同時に、日曜夜にこもる暗室の空間も深く愛したはずである。

そこでは現実のなかで見てきた光景や情景がふるいにかけられ、白と黒のスケールのどのあたりにその像を停止させるかが考え抜かれる。それによって、喚起させるものが大きく異なってくるのを彼はよくわかっていた。

ジャコメッリの写真でもっともよく知られるのは、雪のなかで神学生が戯れている「私には顔を撫でる手がない」というシリーズだが、ここでは雪のディテールを白く飛ばして、裾の長い法衣をまとった姿だけが浮き彫りにされている。

本書の表紙に使われている「スカンノ」シリーズの一点も同じで、中央の少年を焼き出し、あたかも少年が見る者に語りかけてくるような雰囲気に仕上げている。いずれも、撮影の現場ではまったく違って見えたはずだ。

出るはずのディテールは出すのが写真の原則であり、そこが技術の見せ所だというのが、少なくとも彼の時代のメインストリームだった。イメージを追い求めすぎると写真のリアリティーが損なわれる、という言い方もされた。だが無手勝流でやってきた彼には、そうした教科書的な教えからは一切自由だった。

ここで重要になってくるのは、何のためのイメージなのか、ということだ。

写真でイメージを作ることはある意味で簡単で、デザイン力さえ秀でていれば衝撃的なイメージを生み出せる。だが、ジャコメッリの写真にはそうした安易さや倦怠は見られない。ひとつひとつのイメージが謎めいていて、しかも生命のリズムにあふれている。死を待つ老人をとらえたホスピスシリーズでさえそう感じさせる。

「私が興味あるのは<時間>だ。<時間>と私との間には常に論争があり、永遠の戦いがおこなわれている」

時間こそが彼の関心であった。生を受けてから、死によって途切れるまでつづいていく時間。写真をそうした時間の痕跡ととらえ、慈しんだのだ。フィルムの表面に指で触れたり、タバコの吸い殻の山のそばに感材を置いたりと、彼の写真の扱いは無造作だったようだが、指紋がついたなら、それもまたひとつの出来事として写真にとり込んでいこうというような気持ちだったにちがいない。そのように写真に関わることが、彼の言う時間との「論争」の姿であり、その意味においては、写真に関わってこない時間などひとつもなかった。

このような考えは、彼の生い立ちから醸成された面もあったのだろう。8歳で父親を失い、母は家族を養うためにホスピスで働いていた。13歳で働きだしたのも貧しくて進学できなかったからで、イタリアが日本以上に厳格な階級社会であることを思うと、小さくはない意味をもつ。ポスピスは彼が子供のころ、母親についてよく訪ねた場所だった。そこで彼は、まもなく与えられた時間が尽きる人々をその目でじっと見ていたのである。

ジャコメッリは生涯を通じて、写真とともに詩作をつづけている。現実のなかを流れている時間と、そこで意識したり感覚したことを混ぜ合わせる創作の時間を、映像と言葉の両方でもったのだ。一方が他方を支え、補強するのではなく、それぞれが生み出すインスピレーションを統合して化学変化を起こさせる。そうした試行錯誤のなかに、彼は生きつづける力を見いだした。そのようにして、時間という存在から自由になったのだ。

ジャコメッリの写真がまとまって紹介されたのは、2008年に東京都写真美術館でおこなわれた写真展で、いま二度目が同館で開催中である。本書は以前出ていたイタリア版からの翻訳版を、展覧会にあわせて出版した新装版で、彼の作品シリーズを編者が再構成し、批評家の文章をあいだに挟み込むという形式がとられている。文章には翻訳のこなれていないものが一部あるものの、ジャコメッリの写真を知りたい人にとって、今手にすることのできる唯一のものだ。イメージは強烈でも謎めいたところの多い彼の作品に、繰り返しもどるためには、欠かせない一冊だろう。


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