『フォト・リテラシー-報道写真と読む倫理』今橋映子(中公新書)
「「報道写真」がたどった試行錯誤の道程」
タイトルの「フォト・リテラシー」は耳慣れない言葉かもしれないが、「メディア・リテラシー」なら聞いたことがあるだろう。メディアの「読解力」を意味する言葉で、対象となる多くは映像メディアである。『フォト・リテラシー』はその映像から写真を抜き出した言葉だ。
とはいえ、写真の現在はあまりに広大でとりとめがなく、本書では「報道写真」と呼ばれるものが対象となっている。それがどう成立し、どのような紆余曲折を経ていまに至ったかを遡る。読み解くための鍵は、「報道写真」が積み重ねてきた経験の中にあるのだ。
たとえば、写真を語るときにだれもがよく使う「決定的瞬間」という言葉は、カルティエ=ブレッソンの写真集のタイトルから来ているが、フランス語の原題の正確な意味は「かすめ取られたイマージュ」だという。なぜそれが「決定的瞬間」なってしまったのか。
英訳の段階で「The Decisive Moment」 となり、それがそのまま邦訳されて「決定的瞬間」になった。この言葉のニュアンスが、構図が決まっているカルティエ=ブレッソンの写真とあまりにピタリと当てはまるために、広まってしまったのである。
さらには写真家本人もこれを逆輸入して、意識的に使っていた節がある。晩年のインタビューで「その瞬間をいかにすばやくつかむか」を語っていたことを、著者は指摘する。カルティエ=ブレッソン自身、この言葉の有効性に気付いていたのだ。英語版の編集者がすぐれたコピーライターだったとも言えるだろう。
だが、著者がここで強調するのは「有効性」とは逆の効果である。つまりこの言葉によって、いかに報道写真が限定されてしまったかを語る。
「カルティエ=ブレッソンだからこそ可能であった絶妙な構図が、私たちの中では常に自動的に、現実を目の前にして、ある絶頂のタイミングをつかみ、そのままに読者に提示されたものーーーという思い込みを生み、延いては優れたドキュメンタリー写真とは、そうであるはず、あるいはあるべきという妄信を生んではいないだろうか。(中略)カルティエ=ブレッソンの神話がこうして切りくずされる瞬間、私たちの前には、報道写真を再考察する糸口が次々と発見されるのである」
「記録性」を重視した写真を言い表わす言葉として、「ドキュメンタリー写真」「フォトルポルタージュ」「報道写真」などがある。この「記録」という言葉に対するのは「芸術」だ。スタジオ撮影したポートレイトや静物写真など、手を加えたり、状況をコントロールした、「芸術写真」に対抗するものとして、一九二〇年代後半から「ドキュメンタリー写真」が成長してきた。
「ドキュメンタリー」はもともと映画で使われていた概念で、それがこの時期に写真に転用され広まったのは、グラフ雑誌の創刊が相次いだことと無関係ではない。グラフ誌の誕生によってひとつの写真ジャンルが確立したのだった。
当時の「ドキュメンタリー写真」は、必ずしも現実に起きたことをありのまま撮ったものではなかった。演出をほどこすことが当然のように行われ、いまならば「やらせ」として否定されるようなことが常套手段化していたという。「ドキュメンタリー写真」とはドキュメンタリー的なスタイルで撮られた写真のことであり、社会的にもそれが受容されていたのだ。
だが、戦後になってそれは変わる。『ライフ』誌に載ったドアノーの「市庁舎前のキス」が例として挙げられている。パリの路上で堂々とキスしているカップルを撮ったこの写真は、実はモデルに恋人役を演じさせて撮ったものだった。後にモデルが肖像権を主張して裁判沙汰になり、演出写真であることが明るみに出たのだったが、発表当時は現実の光景のように受けとられ、パリのロマンティックな雰囲気を高めるの一役買ったのだった。
「「決定的瞬間「「絶対非演出」「トリミングの拒否」というカルティエ=ブレッソンにまつわる教条が、戦後の現代人の写真観を規定してきた」可能性を著者は述べる。たしかにそれもあるだろう。だが、これが「芸術写真」の範囲で発表されたなら、だれも事実かどうかなど気にしなかったはずで、『ライフ』誌であったゆえに「事件化」したのだ。グラフ雑誌の存在そのものが、「事実によって真実を伝える」というプロパガンダを含んでしまっているのである。
実際にはグラフ誌を支えているのは、大衆の見たいという欲望にほかならない。彼らが見たがるものいかにを素早く察知して世に送りだすかが、視覚メディアの生命線なのだ。その意味で「グラフ雑誌はエージェンシー」であり、「撮る者と観る者との共犯関係の中で成立している」という発言はもっともである。グラフ誌が衰退し廃刊に追い込まれたのは、グラフ雑誌のタテマエとホンネの齟齬が明るみにでたことが大きいだろう。
複数の写真でページを構成する「組写真」の手法に潜む陥穽、雑誌掲載された写真が写真集になってときの脱コンテクスト化の意味、異文化および戦争を表象する問題など、後半ではさまざまなテーマが展開される。どれにも共通しているのは、写真とは、扱い方次第で大きく意味が転じる、繊細で壊れやすい性格を持つものだということだ。自立した存在ではなく、器によって変化する、なによりも見る人の眼差しを必要とするメディアなのだ。
さまざまな議論や誤解や対立を経て「報道写真」の今がある。受け手と送り手のあいだに「現実」が介在するゆえに、その現実が瞬間的にとらえられて前後が省略されるゆえに、着地点の受け止め方に確執が生じるのだ。
本書はその意味で、「写真の曖昧さ」と人が格闘してきた歴史を綴っているとも言えるのである。報道写真の成立する過程が、そのまま写真の本質を浮き彫りにし、同時に人間存在の曖昧さも表わしている。だが、曖昧であるゆえに、受け手に委ねられるものも大きい。写真を見ることの醍醐味はそこにあるだろう。
「世界や人生を異化し、観るものを立ち止まらせないでおかない一枚こそ、報道とアートの境界を無効にする生命力を持ちつづけるのである」
ジャンルを問う前に、一枚の写真の前で立ち止まってしまったことの重みを受け止めるべきだ、というこの言葉に深く賛同する。見られない写真は演奏されない音楽のように淋しい。写真の生命は、見る行為の深さによって強められるのである。