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『気仙川』畠山直哉(河出書房新社)

気仙川

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「見えること」と「見えないこと」のはざまに立つ


もっと早くにこの写真集を取り上げたかったのに、時間がとれないまま11月になってしまった。もっと早くに、と思ったのは、東日本大地震の惨状を写した写真への世間の関心が、日に日に遠ざかっていくように感じられたからだったが、出てから2か月近く経ったいまこれを書こうとして、出版直後とは別の思考が自分のなかに延びているとも感じている。

B5サイズの横幅をカットした縦長の本だ。ページを捲ると上半分は白い余白で、文章だけがあり、このようにはじまる。

「何かが起こっている。いまここではない遠いところ、ほら懐かしいあの場所で、何かとてつもないことが起こっている。その様子がいま僕のいるところからでは、よく見えない」

「よくわからない」ではなく、「よく見えない」と書かかれていることに注視しよう。本書のテーマがここに集約されている。この世には「見えること」と「見えない」ことがあって、写真は「見える」ことのほうを取り扱う。写真家である畠山直哉はそのことに自覚的だから、「いま僕のいるところからでは、よく見えない」と書く。

次の見開きのページには写真が二点載っている。右は松林とその奥に延びている道。左は海のなかに後ろ向きに立っている水着姿の女性。ここでもページの上半分は白いまま残されている。

文章はここから、陸前高田と大船渡に暮らす姉二人と母の安否をたしかめるために、バイクで山形県酒田から迂回して故郷にむかう写真家の道程と、その途上で生起する感情と思考とが克明に記されていく。

そうした文章ページのあいだに挟まるのは、彼の生まれた陸前高田の震災前の写真だ。気仙川の河口の風景、それが生んだデルタにできた町並み、河口の先にある入り江になった海など、地形を想像させる写真が多く、祭りの写真や家並みの写真がそこに混じる。

移動の途上で彼は、母と姉ふたりの名前が避難者名簿に並んで出ていたという報告を受ける。ということは生存しているのだ。三人が体育館ような固い床の上で毛布にくるまって身を寄せ合っているシーンを彼は想像する。言葉の情報を得たとき、それをヴィジュアルなイメージに置き換えることはだれにもあるだろうが、写真家はとりわけその習性が強い。「毛布にくるまっている三人」のイメージを心のよすがにして、彼は少しずつ故郷へと接近していく。

ところが途中で、それが誤報であったのがわかる。姉二人の生存は確認されたが、母の姿は見つからないのだ。これから遺体安置所を回るという姉の言葉に、彼のなかにあった「毛布を被っている三人」のイメージが崩れていく。「あの情景を、いまさら僕の頭から消せというのか」。

姉のいるところまで十五分で到着という時点で、文章は唐突に終わる。姉との再会がどうだったか、母の遺体との対面したときにどんな気持ちになったかなどの記述は一切なく、ただこう書かれる。

「明日からは、今までの人生で経験したことがないほどの痛烈な刺激を、膨大に知覚することになるだろうけれど、僕はそのためにここに来たのだから、すべきことをできるだけはっきりと把握して、僕の現在に位置づけなければならない」

その後、写真が三ページあり、何も載ってない真っ白なページを繰ると、被災した町の写真が見開きページ全体に現れる。津波で壊滅した町の写真がそれにつづき、「見えている」世界へと移行する。荒野のなかに道路だけが残っていたり、杉木立のなかにクルマが突っ込んでいたり、泥まみれの干上がった海の底のような町の姿が、そこには写っている。すべて無人で、人が写っているものは歩いている女性の後ろ姿がある最初の一点だけだ。

「見えること」だけが写し撮れ、見えないことは写らない。これが写真の大原則である。畠山直哉の写真観はこれまでこの原則に沿ってきた。見えているものを克明に写し撮り、観察と発見を促す。意図してそうしてきたことが、あとがきの最初にこう書かれていることからもわかる。

「……僕は自分の住む世界をもっとよく知ることのために、写真を撮ってきたつもりだ」。

撮ろうという意志はまちがいなく人間のものである。だが、写真そのものを生み出すのはカメラという機械であり、それゆえに、意図しなかったものや、人の認識を超えたものが写り込む。「自分の住む世界をもっとよく知るために」という彼の言葉は、写真のこうした原理と密接につながっている。

だが、ここからが複雑なのだが、「見えること」を対象にするこうした写真のもう一方の極に、「見えない」ことを対象にする写真がある。矛盾した言い方に聞こえるかもしれない。「見えること」しか写らないのに、どうして見えないことを対象にできるのか。

それが可能なのは、そこに写っていないことを想像しようする人間の心性のためだ。写真を見てなにかを思い出すという行為、忘れていた記憶がよみがえってくるという現象は、人間のそうした特質から生まれ出る。極端な例として心霊写真を考えるといいかもしれない。写真上に無人の空間あるとする。そこに現像ミスかなにかで三つの染みがあれば、人はそれを繋げて顔を読み取ろうとするのだ。

見る人の意識を「見えないもの」のほうへと引っ張っていくこうした写真は、像がぼやけていたり、粒子が荒かったり、水平線が傾いていたりすることが多い。それゆえ、見えないもの=記憶に働きかけようとする写真は、その傾向が強くなるとも言える(カラー写真では像のぼやけだけではなく、色彩がもたらす影響も考慮しなくてはならないだろう)。反対に「見えるもの」への観察にむかわせるのは、カメラに仕事をさせて克明に撮影された写真だと言える。

畠山が当初抱いた、「毛布を被っている三人」のヴィジュアル・イメージは、どんなに強く願っても写真に写すことができないものである。文章だから書けるのだ。文章の時制を「見えないもの」を想像している時点に設定しているのはそのためで、言葉の想像力を十全に引き出そうとして意図してこうしているのだ。

読者のほとんどは結果を知っている。わたしも「毛布を被っている三人」など存在しなかったことをわかって読んでいる。にもかかわらず、ページを繰りながら動悸が激しくなるのを抑えられない。「見えるもの」に対峙してきた写真家が、「見えないもの」に引き寄せられている緊張感こそが、この文章の牽引力なのだ。

それでは文章ページのあいだに置かれた被災前の写真は、どのような働きをしているのか。彼はどんな意図を込めて、それらをここに挿入したのか。

「『写真として』」ではなく、そこに何があったのか、その人はどんな顔をしていたのか、その時の空は、水はどんな色だったのかを、写真から確かめたい」。

写っているものにより細かい視線を注ごうとするこの努力は、「見えるもの」を対象にする写真への態度に近いように感じる。だが、それだけではないだろう、とも思う。これらの写真を見るとき、同時に、写真を撮った前後の時間に起きたことや、そのときに目にしたけれど写真には撮られなかったものや、写真に写っている人と交わした会話など、「見えないもの」をもたどっているにちがいないのだ。

昨年、東京都写真美術館で開催された「ナチラル・ストーリーズ」と題した写真展で畠山は、完成されたいくつかの作品シリーズのほかに、被災前と被災後の陸前高田の写真を展示した。だから、これらの写真をわたしはすでに見ている。そのときは、かっちりと構成されたほかの作品シリーズのスタティックな印象と大きな差があるのに驚いた。ひとりの写真家のなかに、これほど別種の写真が存在しているのが意外だったのだ。

だがいま、それらの写真をこの本のなかで見ると、写真展で見たよりも親しみが増しているのを感じる。一度目と二度目では決して同じ視覚体験にはならない、ということがあるだろう。目は慣れるものだ。しかし、理由はそれだけではないようにも思う。

紙に印刷されたものを見ている(写真展ではモニターだった)ことも、文章と一緒に見ているとことも、前回とは大きく異なる点だし、写真展の後にわたし自身が陸前高田を訪ねたことも関係しているのだろう。それらのすべての時間が、いまこの写真を見ているわたしの視線にかぶさっている。写真を見るとは生きてきた時間すべてを投入する行為であり、時間の不可逆性とつきあうことなのだ。

現実を写し撮るのはカメラだ、と先に書いたが、その結果を見るのはカメラではなくて、人間である。その人間の「都合」によって写真の見え方は変化してしまう。「写真としてどうなのか」という問題設定がむずかしいのはそのためだ。人間の事情によって評価の基準が動いてしまって、停止させることが出来ないのだから。

畠山はそれを「写真の振る舞いの身勝手さ」と呼ぶ。彼は撮り手であるからそう表現する。僕はこういうつもりで撮ったのに、写真は勝手にそれとは異なる振る舞いをする、のであり、そうした写真の振る舞いは、「人の手に負えず、僕らはそれをひとつの現象のように、ただ見つめることしかできない」。

かつてあったものを想像する手がかりとして、わたしはこれらの写真を見ている。入り江のところにこんなに深い松林があったのか、町並はこんなふうだったのか、川幅の流れはこれほどおだやかたあったのか、というようなことをページを繰りながら思う。被災前の陸前高田は見ていないから記憶と照合して観察することはできず、その代わりに、その町を包んでいた空気を想像しようとする。そして空気という存在は、言うまでもなく「見えない」ものに属する。

本書を貫いているのは、「見えるもの」と「見えないもの」のはざまに生起する現象を、写真と文章とによって記述しようとする意志だ。写真のセレクション、順番、文章表現、それらをどうレイアウトするか、というデザインの問題も含めて、ぎりぎりまで考え抜いた成果がここにある。答えを得るのではなく、問いを発することが写真の行為であるという自らの写真観を表明した、歴史に残る名作であると思う。


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