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『スローモーション考―残像に秘められた文化』阿部公彦(南雲堂)

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「モードとしてのスローモーション」


 本サイトでも執筆されている阿部公彦(あべ・まさひこ)さんによる単著である。本書は、「ゆっくり」に秘められる意味を現代文化のなかでとらえようという大きな構想力に基づいている。そのためのキー概念となるのが「スローモーション」と「残像」という表現方法であり、そこからマンガ、絵画、ダンス、野球、小説、詩などの諸ジャンルが検討されていく。
 近代的な価値観、近代資本主義の産物としての「速度」はよく論じられる。また、それとの対比、あるいは批判としてスローライフスローフードなどの「ゆっくり」文化が論じられることもある。ただし、本書はこれらのようにイデオロギー的な意味合いで「ゆっくり」文化を称揚するものではない。それよりは、表象としての「スローモーション」を解き明かし、そのなかにある意味を丹念に検討しようとするものである。

 著者は、第1章の冒頭で「スローモーションという方法もまた、見ることに関するオブセッションの表出である。そこにあるのは運動に対する限りない憧憬である。(中略)運動というものがいつも我々の中にかき立てるのは、究極的には『もっと見たい』『もう一度、より詳しく見たい』という衝動でもある。運動との関わり合いには、凝視と再現の欲望がつきものである』」と述べる。これらの記述からは、著者の問題関心がメディアにあり、メディアというものをその深淵から考えようとしていることがうかがい知れる。そのため、評者は本書をメディア論として読んだ。
 第1章「スポーツ語りとスローモーションの文法」では、現在、スポーツファンのなかで半ば伝説にもなっている「江夏の21球」を軸に論が展開される。「江夏の21球」とは、作家の山際淳司が1979年の日本シリーズ近鉄バッファローズ対広島カープ」の第7戦九回裏の攻防を描いたもので、『スローカーブを、もう一球』 (角川文庫に収録されている(初出は『『Number』創刊号、1980年)。
 著者はスポーツ中継におけるスローモーションが持つ役割を二つ挙げる。一つは擬似科学的な正確さ。つまり、肉眼では認知できない事象を認知することの快楽であり、もう一つは「たった今生じた記念すべき瞬間を、オーラとともに華やかに再現する、いわば劇場的な飾り立ての機能」なのである。言ってみれば複製技術や速度によって失われたアウラ(現前性、一回性)を取り戻そうとするのがスローモーションという技法なのかもしれない。さらに「そもそもスポーツは動きや速度を競うものである。そうしたものとは対極にあるきわめて静的な記録によってはじめてスポーツは意味や結果を与えられる」と逆説的に述べられているが、これは何もスポーツに限ったことではなく、広く敷衍できるものだろう。

 著者は、例えば映画論など映像のレトリックとしてスローモーションを論じる言説が早くから定着していたことを指摘する。そこでスローモーションは、叙情的・悲劇的な印象を与えるとされてきた。
 本書が論じたスポーツ映像や漫画の表象に限らず、現代のテレビ表象全般においてスローモーションは偏在している。それらはメディア言説において「モード」として(この場合、流行という意味ではなく、記号的な要素という意味で)定着しているのである。卑近な話になるが、評者は以前発表した共編著のなかでバラエティ番組の再現VTRにおけるスローモーションの意味に注目し、論じようとした。そこで評者はスローモーションをモードと位置づけたうえで、映像のシークエンスにおけるリズムの変調や切断としてとらえようとした。しかしながら、本書が展開するスローモーションのメディア論的な意味合いにまで考察を進められなかった。その原因は、スローモーションが文化のなかで持つ根源的な意味を問うことが不十分であったためであろう。本書はメディア研究において有効な視点を提起している。

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