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『観光メディア論』遠藤英樹・寺岡伸悟・堀野正人編(ナカニシヤ出版)

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「『メディアからの観光論』と『観光からのメディア論』が交差するところ」



 「観光メディア」といったときに思い浮かぶものはなんだろうか。名所、史跡を網羅した旅行ガイドブック、地域の名店や名物料理を満載したグルメ雑誌、駅や観光案内所におかれているパンフレット、テレビの旅番組などなど…。確かにこれらは観光というイベントを便利にしてくれたり、豊かにしてくれたりするメディアに違いない。そう考えると、「観光メディア論」と題した本書を手に取った人は、観光と結びついた個々のメディア(媒体)やその内容(コンテンツ)を論じた本だとイメージするかもしれない。

 しかし、目次を開いた瞬間、読者のイメージはある意味で裏切られることになる。私たちが「観光メディア」と思っているようなメディアの名称はなかなか見当たらないのだ。そればかりか、音楽フェス、B級グルメ、みやげ、ゆるキャラ、俘虜収容所を描いた映画…など一見、「観光メディア」としては周辺と思えるものを扱っているようにさえ思える。

 それには、本書全体のメディアのとらえ方が大きくかかわっている。そこでは、上記のような狭義のメディアだけではなく、観光に関するコンテンツの土台が広くメディアとみなされているのだ。「まえがき」でその狙いが明確に提示される。(とはいえ、もう少し経験的な意味でのメディアと観光の関係やその変容についても評者には関心のあるところだが、その点については、コラム「メディアに媒介された観光の現在」(前田至剛)で補われている)。

① メディアから観光現象のあり方そのものを捉え直していく「新たな観光研究」
② 観光現象を軸にメディアの捉え直しを行っていく「新たなメディア論」

 入門的・概論的な書物を期待した人には、ややトリッキーな問題設定に感じられるかもしれないが、これまでの観光メディア研究には見られない、斬新で射程の広い切り口である。このような二つのアプローチから得られるものは何だろうか。

 第1章「観光の記号とメディア――観光する私たちはそのとき何を見ているのか」は、記号という視点から観光現象を読み解こうとしている。観光はメディアが提示する記号と観光客が読み解く記号が絡み合って成り立っているという。

 メディアによってステレオタイプ化されたり、単純化された観光地のイメージを観光客がただ消費しているだけではなく、自らがメディアとなって新たな意味を付け加えたり、書き換えたりしているというのだ。ディズニーランドのような綿密につくり込まれた記号世界においてもこのような傾向が見られるのは興味深い。だが、それ以上に評者が注目するのが、「客」という字が入っていることからもわかるように、ともすれば「視聴者」「利用者」「消費者」と同様に受け身な存在とイメージされ一括りにされてしまう「観光客」が、時に「主体」となっている様相である。ここで示されている観光客のメディア性、能動性は第Ⅱ部や第Ⅲ部の事例分析において具体的に展開されていく。

 第7章「ツーリズムとしての音楽フェス――『みる』から『いる』へ」も刺激的な議論が展開されている。「ウォークマン」の出現に始まり、身に着けたデジタルプレイヤーやスマホで音楽を聴く「音楽の身体化」、「個人化」が普及して久しい。また「ひとりカラオケ」専門店が成立しているということも報道されている。そのような状況の一方で、各地で開催される「音楽フェスが隆盛している。音楽とツーリズムの結合である。そこでは、その商業主義的性格や「フェスは本当に地域のためになっているのか」という疑問も挙げられているが、さまざまなメディアを巻き込んで緩やかに地域社会との結びつきや、参加者同士の結びつきを生み出しているという。

 観光のメディア性が凝縮されている事例がアニメ聖地巡礼などの「コンテンツツーリズム」ではないだろうか。第9章「メディア・コンテンツ・観光――アニメ聖地巡礼とコンテンツツーリズム」では、「アニメに描かれた風景を見たいという動機の聖地巡礼者が、身体的移動を伴う行動を行うことで、予想していなかった事象と出会っている」と指摘する。つまり、不確実性を伴った観光というメディアが(あるいは不確実性、不安定性を持っているがゆえに)新たな関係性を立ち上げるというのだ。

 さまざまな観光現象の事例を最後に束ねるのが、第12章「メディアとしての観光――観光化とリアリティ変容」と第13章 「『再帰性』のメディア――近代を駆動させるドライブとしての観光」だ。第12章では、「まえがき」でも触れられた「観光のメディア性」が詳しく論じられる。そこでは現代社会で大きな位置を占める観光的要素を無批判に称賛するのでもなく、「疑似イベント」として切り捨てるのでもなく、その両義性がもたらすものへの注視を促す。

 第13章では、その冒頭で二つの論点が明確に示されている通り、「再帰性」という概念から観光、あるいは観光のメディア性を捉えなおそうとする。「再帰性」という考え方は現代思想社会学を学んだ人でないとなかなか理解しづらいと思われるが、ここではジム・キャリーの映画を事例に、まずそのエッセンスがわかりやすく説明される。さらに「再帰性」から観光現象を読み解く際にも、三つのレベルに整理されており、分析的といえる。ここで提起されるのは観光が「再帰性のメディア」として近代を駆動させているのではないか、という非常に大きな問題関心である。著者はこのように言う。「観光は、社会の諸領域にリンクし、影響を与え、シンクロしつつ変化をもたらし、近代を深化させる現象となっている」。観光が、メディア、文化、都市、ジェンダーなどのさまざまな領域にもたらした影響を捉えていこうとする大きな構想が最後に提示されるものとなっており、この領域の今後の発展が期待されるものとなっている。

 以上見てきたように、本書はコラムを設けたり、ディスカッションのポイントをまとめるなど、読者への工夫を凝らしつつも、新たな問題設定に挑戦した刺激的な「観光メディア論」である。


本書はアンソロジーであるため、一部の章にしか触れられなかった。以下に全体の構成と著者名を付しておく。

【本書の構成】
第Ⅰ部 観光とメディア
第1章 観光の記号とメディア――観光する私たちはそのとき何を見ているのか(堀野正人)
第2章 映画観光と住民運動――板東俘虜収容所の再発見(山口誠)
第3章 観光地と場所イメージ――メディアがつくる他所への憧れ(神田孝治)
第4章 バックパッカーたちのメディア――バックパッキングとその社会的機能の変容(大野哲也
第5章 水の都・松江の夕日―ハーンの旅行記と八景の「遺伝子」(滝波章弘)

第Ⅱ部 メディアの観光性
第6章 モバイルメディアとツーリズム――リアルとバーチャルの融合(富田英典)
第7章 ツーリズムとしての音楽フェス――「みる」から「いる」へ(永井純一)
第8章 写真と語り――写真を撮るとき、見るとき、語るとき(中塚朋子)
第9章 メディア・コンテンツ・観光――アニメ聖地巡礼とコンテンツツーリズム(岡本健)

第Ⅲ部 観光のメディア性
第10章 「ご当地」はどこにあるのか――ゆるキャラB級グルメのコンテクスト(寺岡伸悟)
第11章 観光とセルフ・オリエンタリズム――観光事業にみる日本のナショナルな文化表象(濱野健)
第12章 メディアとしての観光――観光化とリアリティ変容(須藤廣)
第13章 「再帰性」のメディア――近代を駆動させるドライブとしての観光(遠藤英樹)

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