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『Antifragile : How to Live in a World We Don't Understand』Nassim NicholasTaleb(Penguin Books)

Antifragile : How to Live in a World We Don't Understand

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「「ブラックスワン」を超える知恵」

ナシーム・ニコレス・タレブ。不確実な世界に生きる知恵を語らせたら今、最高の書き手だろう。分野を超えて話題をさらったベストセラー”The Black Swan”(原書2007年、邦訳『ブラックスワン』2009年)の衝撃から5年、新たな主著として2012年の終わりに刊行されたのが本書”Antifragile : How to Live in a World We don't understand”だ。


著者によって人口に膾炙した「ブラックスワン」とは、ありそうもない、予測不可能な、しかし実際に起こったらとんでもない影響をもたらす現象のことである。言うまでもなく2011年3月のわたしたちは、「ありそうもないこと」が実際に起こってしまうのを体験した(本書でも何度かFukushimaに言及されている)。かつて当欄で、タレブの前著”The Bed of Procrustes”(その後『ブラックスワン箴言』として邦訳された)を取り上げたが、今見ると大震災の1ヶ月前であることに、我ながら震撼させられる。世界的にも、著者が予見していた2008年の金融危機や、最近のロシアでの「隕石」落下など、「ブラックスワン」的な出来事に満ちている。先行きは全く不透明だ。本書は、ようやく「ブラックスワン」の世界に生きていることを認識したわたしたちに、ではどうすれば(そのネガティブな影響を避けて)生き抜くことができるのかという、いわば「ブラックスワン」を飼いならす手だてを教えてくれる。

空港便などの荷札に’ fragile’とあれば「壊れもの注意!」ということだが、本書の表題は、それをひっくりかえしたものだ(適当な言葉がないので造語したらしい)。ふつうは’fragile’(弱い;壊れやすい)の反対は’robust’(頑強な)とか’resilent’(強靭な)を連想するところだが、ただ「強い」だけでは著者には気に入らないらしい(日本で進められつつある「国土強靭化」の「強靭」も、英語の’resilient’がイメージされているそうなので興味深い)。「こわれやすい」’fragile’に対して、’robust’や’resilient’は単に「こわれない」「持ちこたえる(形状を維持する)」ということにとどまり、外的な変化に対して、マイナスもないがプラスの影響もない。それとは位相が異なる’antifragile’とは、不確実な状況でますます力を発揮する、ストレスやエラーさえも利点にしてしまう、「弱さ」のマイナスの絶対値をそのままプラスに変えてしまう、「強さ」よりも強い(?)概念のようなのだが、そんなことが可能なのだろうか。半信半疑の読者に向かって ’antifragile’な生き方を説く500ページの本書は、上記の3つの概念―’fragile’, ’robust’, ’antifragile’―の対比から、’antifragile’の性質を解きほぐす。

例えば政治体制でいえば、中央集権的な国民国家は’fragile’で、小さな都市国家に分かれている方が’antifragile’だという。言われてみれば、イデオロギーに関係なく中央集権がナチズムやスターリニズムのような「上からの独裁」を可能にした。一方、著者が金融危機にもびくともしなかったと称えるスイスは、まるで「政府」というものがないかの如くだ。「政治」がないわけではなく、小さな自治単位のそれぞれで衆議する「下からの独裁」だが、その「民主的」手続きたるや実に泥臭い利権の争いで、「ユートピア」的な理想など入り込む余地がない。しかし、スイスの強さはその管理されていないゆえの変化への慣性にあって、最後の逃げ場を求めて世界の富が集まり続ける。さてまた、個人の働きかたでいえば、銀行員とタクシー運転手ではどちらが’fragile’かというと、前者だという。日々安定している方が突発的な大きなリスクに弱く、日々不安定だが小さなリスクと付き合い慣れている方が結果的には何とかなっている。農耕定住社会が’fragile’なら、移動の自由のあるノマドは’antifragile’だ。肥大化し過ぎた組織や制度は、’robust’に見えるが自らをつくり変えることができずに、大破局が襲うまで潜在的なリスクを蓄積し続けることになる。「シンプル」であることの強さと困難さを説いた故スティーブ・ジョブズを想起しよう。

このように、本書で著者が痛烈に批判し続ける’fragile’なものとは、一見したところでは「強さ」に思える「弱さ」に他ならない。複雑精緻なモデルを構築しながら現実の経済を読み誤る経済学者、不必要な治療で患者の状態をかえって悪化させる医者など(’iatrogenic’という言葉があるらしい)、専門家の問題が多く指摘される。本書の内容ともリンクする行動経済学の泰斗カーネマンの一般向け著作”Thinking, Fast & Slow”(邦訳『ファスト&スロー』)でもわかりやすく説かれているように、人間の判断は理性よりも直観に左右されやすく、専門家であっても単純な推論上の誤りを犯しやすい。何でも物語化して理解したり、独立の事象の間に因果関係の矢印を結んでしまったり、ゲームの中でしか通用しない法則を現実に適用したりする誤謬に(意識することもなく)陥りやすい。それだからこそ人間の限界を知って謙虚になる必要があるのに、一部の専門家はモデルに合わせて現実の方を改竄したり、都合のいいデータを寄せ集めて「相関性」を示したり、原理的に予測不可能なことまで予測して、その結果のツケは他人に回す。この手の不誠実を暴かせたら、著者のスタイルの右に出るものはなく、ノーベル賞学者であっても容赦のない名指しの批判を浴びせている。何が問題かというと、一部の人間のサバイバルのために社会全体が脆弱性(手抜き工事のように後から効いてくる)を背負わされることになるからだ。

「ダマされるな」(Don't be a sucker)というのが著者の得意文句だが、ではどうすればいいのか。金融界隈では他人の資金を運用して大損害を発生させる事件が後を絶たないが、自分のふところを痛めない(自らリスクをとることのない)専門家は信用するな、ということに尽きるようだ(医者に「あなただったらどんな治療を希望しますか」と聞くのが最良なように)。判断を惑わすほど多くの情報に溺れない(”Less is More”)、何かを信じるよりニセモノに”No”と言い続けることで本質に近づく(”Via Negativa”)といった構えも有効だ。

さて、そろそろ実践的な「生き方」のアドバイスも欲しいところだ。著者が自ら実践し、おすすめするのは、九割はリスクが小さく安定して結果が出る(「退屈な」)方に賭ける、残りの一割は大きなリスクに挑んでみるという両天秤の賭けの戦略だ。「ブラックスワン」は(経済学の標準的モデルでは想定できない)非線形の事象だから、マイナスも大きいがプラスに振れたときも激しい。要はリスクと常に向き合いながら、自分にとって大事なものとどうでもいいものを分別して、それに応じた態度で臨めばよい(著者は日常のあれこれはツアーのように計画的でなく風任せを好むようだ)。本書には著者の分身とも言えそうな登場人物も二人いて、今日では珍重すべき(ニーチェ的)反時代的哲学者ともいうべき面と、余計なことは考えず最後においしいところを持って行く天性の勝負師の面と、どちらも魅力的だが、読者は好むところに応じて取ればよい。できることなら、イアン・ハッキングの書名のように、「偶然を飼い慣らす」こと、「ブラックスワン」を味方につける生き方に開かれていたいものだ。

言っておかなくてはならないのは、本書もまた『ブラックスワン』と同様、ビジネス書という範疇におさめられるとしたら実にもったいない知的刺激の詰まった読み物だということである。自然と技術、経験と理論、医学と科学、幸福と経済など実に幅広い論点を考察しながら、古今の賢人と自由自在に対話を繰り広げる。古代ギリシャタレスに始まって、古代ローマセネカ、近代ではモンテーニュニーチェなど、著者ならではの古典への博識がうかがえる引用(ラテン語やフランス語の原文も)や解釈が目白押しで、哲学や文学を好む読者にもおすすめしたい。偶有性を尊ぶ「フラヌール」(遊歩者)の如く、カフェからカフェへと思索の生活を送っているらしい著者もまた、「哲学者」である。タレス(やソクラテス以前の哲学者たち)については本邦の話題書、柄谷行人氏の『哲学の起源』でも興味深い解釈がなされているが、本書のタレスセネカがいかに経済的にも賢く’antifragile’な生き方を貫けたかという話も、プレカリアート率が高くなっている現代の勤め人の参考になるはずだ。古いものと新しいものについての話も重要で、例えば、わたしたちはあれこれのガジェット(電子書籍を含む)の最新バージョンを持つことを競う一方で、近未来もおそらく紙の本を読み続けているだろうと言えるのはなぜか、といった考察も実に納得のいくものだった。

最後に、本書を読み続けていた間、どうしても松岡正剛氏の名著『フラジャイル』を連想せずにいられなかった。松岡氏の本は多分に日本文化への美学的な領域の考察で占められていて、ここで実践知のために批判されている’fragile’とは視点は自ずと異なるのだが、「強さ」と「弱さ」という偽の対立を超える可能性を示す試行という意味ではいくらか重なり合うものがあるように思う。本書ではFukushimaのこともあって日本はいい例では全然登場しないのだが、’antifragile’という無粋な言葉に対する代案なり’antifragile’の新しい展開なりを期待してもいいはずではないか。

(営業企画部 野間健司)


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