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『ファンタジア』 ブルーノ・ムナーリ[著] 萱野有美[訳] (みすず書房)

ファンタジア

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人は70才でこんなやわらかいファンタジアを持てるものなのか

デザインに革命をもたらすイタリア人デザイナーには、流石レオナルド・ダ・ヴィンチを輩出したお国柄だけのことはあり、何でも知って何でもやってみようという多面万能、西周(にしあまね)流に言う「百学連環」(現在「百学連環-百科事典と博物図譜の饗宴」展開催中)の普通人(homo universalis)の血脈がたっぷり流れ込んでいる。代表格といえば右にピエロ・フォルナセッティ、左にこのブルーノ・ムナーリをあげたい。どちらも日本人のデザイン感覚が大好きという知日派親日派であるのも素敵。二人とも、単にヤカンの格好がどうしたこうした、こういう場所には何の補色が良い・悪いなどということにかかずらう狭義のプロダクト系デザインとは大きくかけ離れた一種の総合芸術を目指し、従って例えばマニエリストと呼んで差し支えない稀有な存在である。

実はぼく自身、杉浦康平氏の口利きで神戸芸術工科大学(「日本のバウハウス」?)で教鞭をとる機会にいろいろと恵まれた際、まずデザイン概念の広義化を目指し、故に「ディセーニョ(diségno)」、それも模倣すべき対象を外界から人間の頭の中の内容物に転換したディセーニョ・インテルノ(diségno interno)の解明を言って、しかもその実践まで体系化しようと図った16世紀イタリア・マニエリスモの言い分に一つのモデルを求めたことがある。その時念頭にあったのが、少し商売気あり過ぎるフォルナセッティである。『マニエリスト』、『驚異の部屋』(“Cabinets de curiosités”/英訳“Cabinets of Curiosities”)のパトリック・モリエスが大著『フォルナセッティ』“Fornasetti : Designer de la fantaisie”/英訳“Fornasetti : Designer of Dreams”)を書いたことで分明のように、彼はバリバリの(ネオ)マニエリストたるデザイナー。教育熱心という肝心なところで格がひとつ上なのは、ブルーノ・ムナーリの方である。昨年邦訳が出た『デザインとヴィジュアル・コミュニケーション』は近来のデザイン教育論の傑作。

そういう一見バリバリの大学生向け講義とは違って、そうだなあ、中高生レベル相手に「デザイン」とは何かを説明しようという構えのどこまでも易しい(優しい)『ファンタジア』の方に、ぼくは深い魅力を感じているので、邦訳刊行は昨年であるが、取り上げたい。

シュルレアリストたちの堂々たるアート作品から中世のブロードサイド(瓦版)の絵、生物や鉱物結晶の写真から下手うまな子どもたちの手描きのデッサンまで、雑多にしか見えない図版満載。全部黒白なのが、ものがものだけに残念至極(中野美代子『綺想迷画大全』でフルカラーを堪能した「多頭怪ラーヴァナ」と同趣向の絵も入っているが黒白は駄目だ)だが、そのぶん安く手に入るわけだから我慢しよう。

猛烈な図版ラッシュの合間に綴られる言葉が伝えようとしていることは途方もなく凄い。例えば「ファンタジア(Fantasia))」、英語でファンタジー。簡単に幻想と訳して、幻想的だの幻想文学だの言うが、ファンタジーって何?と問われるとほとんどまともには答えられないだろう。それに「イマジネーション」との関係は?想「像」力という西周級に絶妙の訳語を持つ割には、我々はこれが「イメージ」をうみだす視覚的作用だということを忘れている。実に半世紀にもわたるあのロマン派文芸たるや、イマジネーションとファンシー/ファンタジーの重なりと齟齬をめぐって大騒ぎしたにすぎないとさえ言える。そしてひと巡り早く来たマニエリスムの中核にあったのが――例えばそれを見るのに一番ぴったりなG・ルネ・ホッケの『迷宮としての世界』(1957)によれば――デザイン(「ディセーニョ」)であり、「ファンタジア」であり、「イマジナツィオーネ(immaginazióne)」であったはず。発明と訳される「インヴェンツィオーネ(invenzióne)」も実はそう簡単な概念ではない。文芸寄りのところではさらに「コンチェッティ(concetti)」もある。英語でウィット(wit)。フロイトが本気で論じた「witz(機智)」である。

これら錯綜必至の哲学・美学的概念の区分けに今も美学の最先端は苦労し続けている。西欧近代の美の問題の粋というべき課題だが、議論百出、百家争鳴状態で、どうにもならない。こういう観念の一方的入超国たる我が国では事態はさらに絶望的で、例えばルイス・キャロルやハリ・ポタで論文を書いている人間と話していて、「ファンタジー」という語についてOEDさえ引いていないというので話は終わり、ということばかり重ねてきた。ファンタジアの究極の源はギリシア語の「ポス」、光であることを知るだけで状況は一新されるのに、など思う。

それが流石はムナーリ。教育現場に活かせる幻想論、想像力論のモデルを手際よくつくりあげる。ファンタジアとは「これまでに存在しないものすべて。実現不可能でもいい」もの。インヴェンツィオーネ(invenzióne)は「これまでに存在しないものすべて。ただし、きわめて実用的で美的問題は含まない」。クレアツィオーネ(creazióne)は「これまでに存在しないものすべて。ただし、本質的かつ世界共通の方法で実現可能なもの」。イマジナツィオーネ(immaginazióne)は「ファンタジア、発明、創造力は考えるもの。想像力は視るもの」。簡便過ぎて罠かもしれない(アインシュタインのE=mc²の罠?)。しかしその基本中の基本からアッという間に「ファンタジアと発明を利用する方法である創造力」とか、自分の目指すのは「ファンタジア、発明、創造力の操作方法について適切な方法論によって整備」することとか、<現場>を目指して理論がどんどん目の前で立ち上っていくのは、新しい内容を他の人間(特に子ども)に伝えていく<教育>に携わる者としては教えられること多く、大袈裟でなく息を呑む。昔、ユング心理学がよくわからなかった時に、フォン・フランツやアニエラ・ヤッフェといった超プロがゼロから説明してくれた『人間と象徴』(〈上〉〈下〉)で一から全部わかった爽快な気分になったことを、久しぶりに思いだした。解説書として危ういまでに善意に満ち、かつスマート。プロの仕事である。

こういう枢軸概念の相互作用で出来上がる「デザイン」の概念は、想像通り見事である。

創造力とは、発明と同様ファンタジアを、いやむしろファンタジアと発明の両方を多角的な方法で活用するものである。デザインは企画設計をする手段であり、創造力はデザインの分野で活用される。デザインはファンタジアのごとく自由で、発明のごとく精密であるにもかかわらず、ひとつの問題のあらゆる側面をも内包する手段である。つまりファンタジアのイメージ部分、発明の機能部分だけではなく、心理的、社会的、経済的、人間的側面をも含みもつものなのである。デザインとは、オブジェ、シンボル、環境、新しい教育法、人々に共通の要求を解決するためのプロジェクト・メソッド等々を企画設計することだと言ってもいいだろう。(p.22)

見事だ。この透徹した簡便さをぜひ原語で味わいたいと思う。翻訳者はむろん大健闘だ。

こうした理論的な部分に続く約3分の1は要するに異質な観念や次元の意識的な結合の仕方の類型学である。「コルクのハンマー」、「広場にベッド」、「五線譜のランプシェード」等々、男子用小便器を「泉」に変えたデュシャンの精神に倣って面白く続くこの「あべこべの世界」とは要するに“ars combinatoria”のわかりやすい解説である。残る3分の1が本書の白眉で、それは子どもたち相手のワークショプにおける実験実践のいくつかの写真入り解説の体(てい)であるが、既成の概念やオブジェがいかに別ものに変わっていくか目のあたりにした子どもたちの<驚異>の念が伝わってくる工夫の記録である。ぼくは大学が石原都政につぶされていく中、ぎりぎりの夢を抱き、教育の場にマニエリストたちの<驚異 meraviglia>をと唱えて大方の失笑を買ったが、例えばその時、ぼくの念頭にあったのが、ムナーリの奇跡的な絵本『きりのなかのサーカス』と、それを支えた優しいデザイナーが教えるマニエリストの心意気だった。

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