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『汽車旅放浪記』関川夏央(新潮社)

汽車旅放浪記

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尾燈好きの少年

 昨年10月にさいたま市にオープンした鉄道博物館。連日、たいへんな賑わいだという。鉄道オタクがそれだけたくさんいるということだろう。


 鉄道の世界は奧が深い。全国各地の鉄道を乗り回るだけが鉄道オタクではない。時刻表を熟読する人、記念切符や標識を集める人などなどいろいろだ。鉄道オタクではない人間にとっては、列車に乗ったら風景を見るぐらいしかやることがないと思うが、鉄道オタクにとってはそうではない。上りの列車に乗ったとしよう。すると、ふだん時刻表を熟読している鉄道オタクなら、あと何分何秒後ぐらいにどこそこ行きの下りの列車とすれ違うはずだと外に注意を向けているのだ。凡人には理解しえないようなスリリングな時間が彼らのなかでは過ぎている。

 この本は、子ども時代から鉄道が好きだったという関川夏央の鉄道エッセイである。関川が心ひかれる対象は、「トンネルの前方の眺め、盲腸線の終着駅、プラットホーム上の大きな洗面台、跨線橋、ペンペン草の生えたレールの車止め」だという。関川みずからが認めるように、常人が理解に苦しむようなものばかりだが、関川に特徴的なのは、トンネルの前方の眺めは別として、うらぶれたような光景を好んでいるらしいことである。そこには、いくぶんかの自虐と不機嫌がある。関川には『「世界」とはいやなものである』という本があるが、気に喰わぬもの、いやなものを見つけては、それをわざわざ取り上げて、喜んでいるようなところがある。

 たとえば、上越線土合駅での話。地上から480何段かの階段を下りてようやくプラットホームへ辿り着いたのに、茨城から来たと思しき団体客がいて、「気にさわる笑い声を上げ」ている。あるいは、千葉小湊鐵道のことを語ったところ。高村智恵子ゆかりの別荘跡があるというので、訪れてみると、立看板があり「ゆかりの家」と文字が書かれている。たぶん「智恵子」の部分がとんでしまったのである。文字があったはずの場所の少し上に、「車で金融」という小口金融のビラが貼りつけてあったことを、関川はわざわざ書き込むのである。

 こんなふうに書いてしまうと、世界ではなく、関川こそいやな男である、と思ってしまうかもしれない。じっさい、テレビなどを通じて知っている関川はそれほど付き合いのいい人にも見えない。しかし、この本を読んでいて、不快になるかというと、それは違う。むしろ、この本の面白さは、関川の「不機嫌ぶり」を楽しむことにあるのだ。たとえば、こんな一節がある。この一節は、38年前の夏、旧北陸本線日本海沿いに、自転車旅行を企てたときのことを思い出しながら、同じ場所を2003年に再訪したときのことを書いた部分だ。38年前は、日射病になるぐらい暑かったのに、その年は冷夏であった。

 

海水浴場のほんの少し沖合に弁天岩がある。高さ一〇メートルほどの細長い岩で、頂上の小さな祠がある。(中略)私は昔、自転車旅行でここを通過するとき弁天岩から海にとびこむ少年の姿を見た。一瞬少年の体がシルエットとなって宙に浮いた。きらっと輝いて、つぎの瞬間ざぶんとしぶきが上がった。少年たちはつぎつぎととびこんだ。ああ夏だなあ、と十五歳の私は思った。私は走りながら今度はザ・ピーナッツの「恋のバカンス」を歌った。

 今年は寒くて悲しげな海水浴場だから弁天岩に人影はない。私は「誰もいない海」でも歌おうかと考えた。しかし、越路吹雪風がよいか、トワ・エ・モワ白鳥英美子風がよいか判断がつきかねて迷った。それでいて私にはどちらも歌えないのである。

 「それでいて私にはどちらも歌えないのである」という切りかえし方が、いかにも関川的であるが、こういう「不機嫌ぶり」こそ関川夏央という書き手の真骨頂なのである。

 「ペンペン草の生えたレールの車止め」が好きだと言ってしまうような美学の裏には、たぶん、「こんなワタシを愛してください」というような甘えがある。だから、「バッカじゃないの?」という実もフタもないようなことを言ってしまう人がいるであろうことも事実だ。しかし、そもそもバカでなければ鉄道ファンなどやっていられない。鉄道などというものに夢中になっている自分に(いくぶんかはあきれつつも)感動し、そういう行為をほかの人にも(あきれつつも)愛してほしいと鉄道ファンは心の奥底では願っているのである。

 関川はこの本で、自分と同種の、「バッカじゃないの」といわれるような人びとを愛情をこめて描いている。たとえば、『阿房列車』の内田百閒。百閒先生は旅行前に切符を買ったりするようなことは決してしない人であった。「先に切符を買えば、その切符の日付けが旅程を決めて、私を束縛するから」というのだが、こういう変なところにこだわる内田は関川の未来の姿であるといってもいい。そして、関川がもう一人、敬意を込めて、たっぷりと分量をとって書いているのは宮脇俊三中央公論社のすぐれた編集者であった宮脇は、同時に筋金入りの「鉄ちゃん」であった。『鉄道二万キロ』や『最長片道切符の旅』といった名作を書いた頃の宮脇は、たぶん、いまの関川と同じぐらいの世代であるが、内田といい、宮脇といい、「いい大人」のくせして、鉄道のことになると、つい、子どもになってしまう人たちである。

 鉄道に夢中になるということは、子どもっぽい振る舞いであるにちがいないが、関川はこの本のなかで、とても印象深い、本物の子どもを登場させている。冬の寒い夜、小田急線経堂駅のホームで関川が見かけたという5,6歳の少年である。少年はホームの端へ駆け出していく。まさかホームの端から線路へ飛び降りるつもりか、と思って関川は緊張する。 

 

子供はホームの先端に達した。しかし飛び降りはしなかった。ホームの端に立てられた鉄パイプの安全柵に摑まって爪先立った。彼のかたわらを上りの電車が加速しながらとおりすぎた。子供は同じ姿勢のまま、何度か飛び跳ねた。

 その姿を見てようやくわかった。彼は電車を見送るためにそこへ駆けてきたのだ。電車の赤い尾燈がふたつ、闇の中に浮かびながら少しずつ遠ざかった。それは美しかった。(中略)

 尾燈好きの男の子を、母親はしばらく自由にさせていたのだ。それはなにかしら懐かしさの思いを誘うシーンだった。彼もまた鉄道ファンなのだろう。ならば、彼の鉄道好きの原景は、去って行く電車の尾燈ということになる。きっと彼は生涯尾燈を愛するのだと思う。鉄道ファンの好みは多様である。

 関川は尾燈を愛するこの少年に自分自身の姿を投影しているようにも見える。つまり、ここには、みずからの子ども時代への回帰願望ものぞいているのだ。関川自身も言っている、「私の鉄道好きは、一九五〇年代への回帰衝動である」と。

 関川夏央というライターは、基本的に、「いま」よりは、「過去」に執着する人である。先の引用で、関川が、「恋のバカンス」を歌った昔と、「誰もいない海」を歌おうとして歌えなかった「いま」とを対比して、過去をノスタルジックに語っていたことを思い出しておこう。関川が昭和について熱く語るのも、そして昭和の前史としての大正と明治を語るのも(関川には白樺派二葉亭四迷についての著書がある)、「いま」を「いやなものである」と感じるメンタリティの裏返しであるが、このメンタリティには、世界や現在への拒否とか呪詛とかいうような思想的な激しさは存在しない。関川にあるのは、不機嫌という「型」にすぎない。関川によれば、内田百閒はみずからを「体裁屋」と呼んだそうだが、その伝でいえば、関川は「不機嫌という体裁」をとりつくっている人なのである。

 そのことを象徴的に表わす一節がある。1955年の晩秋、関川が6歳になる直前、母親に連れられて上越線の列車に乗って、新潟県長岡から東京へ行った。ところが、楽しみにしていた東京行の日の午前中、関川少年は風邪を引いてしまう。駅前の病院に連れていかれ、「この子の東京行きはよしたほうがよかろう」といわれ、お尻に太い注射を打たれてしまう。それでもこの母子は、旅行を決行するために、駅へ向かって歩き出す。

 

私は泣いた。泣きながら駅へ向かって歩く道は小春日和のよい天気だった。澄んだ空気のなかで泣くのはここちよいものである。

 泣いているように見えても不機嫌なように見えても、関川は昔も今も、ほんとうは「上機嫌」であるのかもしれないのだ。つまり、澄んだ空気のなかで泣くという体裁をとりながら心地よさを感じていた少年は、長じて、不機嫌という体裁をつくるオジサンになったのである。

 時間軸を逆にして言い換えるならば、大人になって不機嫌を装っている関川が、「汽車旅放浪」を通じて回帰していく原風景は、昭和という時代の、この瞬間に見えていた風景である。その風景のなかに、「点」のように映っているのは母親の姿だ。大声で泣きながら道を歩く関川少年の横を歩いていたであろう母親の姿は、ぼくの頭のなかでは、関川がセンチメンタルなタッチで書き込んだ、尾燈好きの男の子のそばに立っていた母親とだぶって見えた。


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