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『関東大震災と鉄道』内田宗治(新潮社)

関東大震災と鉄道

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「町に駅が立体的に建っていた」

9月1日の午後、浅草から上野方面に向かって散歩する。整然とした道路は平らで街路樹は少なく、横断歩道の白線が眩しい。6月の祭りは界隈の通りを本社神輿の渡御が何度も執拗になめまわすようにして進み、たくさんの氏子の足が地を鎮める。89年前、大正12年のこの日は、地震による火災で焼け出されたひとたちが、家財道具を背負い西に向かって走ったのだろう。火勢は西へ東へと向きをかえたそうだが、火の手をまぬがれた上野の山と駅におよそ50万人が避難した。震源相模湾北西沖、現在の震度にあてはめると都心や横浜は震度6強〜弱、藤沢、小田原、館山などは震度7にあたる。

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本書の著者、内田宗治さんは、新潮社の『日本鉄道旅行地図帳 東日本大震災の記録』の記事執筆をきっかけに、関東大震災のときの鉄道を調べはじめたそうだ。大正12年は新橋と横浜間に初めて鉄道が開通して50年、北海道の稚内から鹿児島まで国鉄は延びて、全国におよそ3000社の私鉄ができていた。地震発生時に被害区域で走っていた列車は125本、走行中の6本と停車中の1本で死亡事故が発生し、駅のホームや駅舎の倒壊で亡くなったひとも合わせて130名が亡くなったそうである(行方不明を含む)。


大きな被害をうけた根府川駅、巨大ターミナルとしての東京駅と上野駅のほか、走っていた列車それぞれと、線路や橋、トンネル、駅舎や工場、機関庫の被害状況を、時刻表や公的資料、写真、手記、インタビューなどを通して記してある。国鉄を走るのは蒸気機関車がひく客車や貨物がほとんどだったために水の確保に難儀したこと、逓信省の通信網も寸断されたために鉄道省の通信線が利用されたこと、ラジオ登場を2年後に控えた状態での報道合戦のことなどもあり、当時、鉄道の果たした役割の幅の広さを知らされる。

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この90年に見る鉄道の役割の変化もさることながら、駅の変化も大きい。荷物は宅配に、切符も改札も自動になり、丸く空いたガラス越しに駅員さんと話すことはほとんどないし、時刻表も居ながらにして見られるので待合室に居座ることもない。集まり尋ね留まる立体的な場所ではなくて、「駅ビル」という名の商業施設の中にある自動改札を扉にしてスルーする点のように今は感じる。駅が町のシンボルとして立体的に機能していれば、災害時にやってきた人々に駅舎や線路を開放するのは当たり前の感覚なのだろう。


そうした鉄道員の働きについてもたくさんの記録がある。被災状況によって対応はそれぞれだ。東京駅では駅員がとっさに「ホームから飛び降りろ」。上野駅では震災当日に避難民を無賃輸送、田端・赤羽両駅は地震発生1時間後に開放。線路を歩く道にしたり、略奪から貨物を守るのではなくそれで炊き出しをしたり、せまりくる猛火から避難民であふれる駅舎を守るために近隣の木造建造物を壊して空き地を作ったり。いずれもマニュアルでは想定しようもない事態だ。咄嗟の判断で行動しているのは、「鉄道員」のまえのただひとりの「人」が、「客」のまえのただひとりの「人」を助けようとする一心に思える。のちに讃えられた行為も多いが「勝手な行動」として公的記録から外されたものもあるようだ。

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昨春の東日本大震災では、発生時に走っていた27本の東北新幹線はすべて安全に停止して鉄道の乗客乗務員に死傷者はなかった。土木や列車停止技術のすばらしい進歩の一方で、鉄道会社組織としての対応や情報の伝え方などのソフト面はどうなのかと内田さんは問う。合わせて、関東大震災で山津波に襲われた土地に40年後、東海道新幹線のトンネル工事により出た土で土地が造成された例をあげて、大震災の教訓を忘れがちな私たちの国民性にも触れている。


苦い体験からの教訓が、今でも忘れ去られがちなのは、古来から天災や異常気象には、諦めと祈りとをもって対処してきた農耕民族としての日本人のDNAという気がする。


本書には、鉄道員として個人でとった行動を記す資料やインタビューの多くが実名入りで記されている。残さないとあとから知ることができないというのは考えるほどに恐ろしい。震災の記憶は、私たちはいつしか忘れるという覚悟を共有して、ひとりひとりが振り返りながら入れ子になって進むことの集積として残るのだなと、感じた。


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