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『スローカーブを、もう一球』山際 淳司(角川グループパブリッシング)

スローカーブを、もう一球

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「静かな、スポーツ・ノンフィクション」

 先日、箕島高校野球部の元監督、尾藤公氏が亡くなった。おそらく、私のようなアラフォー世代以上の和歌山県出身者にとって、「箕島」という言葉は、ただの校名以上の意味を持っている。それは思い出を喚起する、スイッチのようなものだ。

 1979年の甲子園、箕島に絶体絶命のピンチが訪れるたびに、私は子供心に挽回を祈ったものだ。そしてその祈りは “ことごとく” 叶えられ、箕島高校春夏連覇を果たした。どんなピンチでも祈ればなんとかなるんじゃないか、なんて甘い考えが私の頭に刷り込まれたのは、あの夏の箕島のせいかもしれない。なんてね。

 甲子園で繰り広げられた数ある名勝負の中でも、「神様が創った試合」「最高試合」と呼ばれているのが、1979年夏の箕島×星稜戦だ。延長戦、ナイター、目を疑うような名手のエラー、隠し球、落球、2アウトランナーなしから起死回生の同点ホームラン×2。あの試合をリアルタイムで見られた私は幸せ者だ。そして、見られなかった人は、不幸だと思う。

 山際淳司氏の短編集『スローカーブを、もう一球』の冒頭を飾るのが、その箕島×星稜戦を描いた「八月のカクテル光線」だ。

 たったの「一球」が人生を変えてしまうことなんてありうるのだろうか。「一瞬」といいかえてもいい。

 それは真夏の出来事だった。

 夏でなければ起きなかったかもしれない。夏は時々、何かを狂わせてみたりするのだから。

 八月一六日。晴れ。気温は30度をこえるはずだとウェザー・キャスターはいっていた。

 なんてキザな文章だろう。でも「気象予報士」なんて言葉は当時まだなかったし、「お天気キャスター」じゃあサマにならないもんなあ。

 これが山際氏の文体だ。少しハードボイルドで、片岡義男氏や村上春樹氏を思わせる、クールで、泥臭くないスポーツ・ノンフィクション。印象的な場面を、けっして感動的に歌い上げることなく、スッと場面転換してしまう。だからといって、消化不良でやきもきすることもない。作品が、綿密な取材に基づいて書かれていることがわかるからだ。

 この、30ページほどの短編作品の登場人物で、山際氏が取材したとわかる人物は11人。主人公である星稜高校の二人、落球で悲劇のヒーローとなった加藤一塁手と18回裏に力尽きた堅田投手、その他、箕島の石井投手をはじめ両校の監督、ホームランや隠し球、タイムリーエラーの当事者、そして主審からも印象的なコメントを得ている。おそらくもっと多くの人々から話を聞いていたのではないか。

 作品を読みながら、「ここで監督はどう考えたんだろう」「あのエラーは辛かったろうな」なんて思うと、必ずその本人のコメントが挿入される。痒いところに手がとどく、とでも言おうか、こちらが知りたいことを、ピタッ、ピタッと押さえてくる。著者の思う壷にはまっているようで悔しいのだが、同時にそれが心地よかったりするのだ。

 もう一つ、山際氏の作品で特徴的なことは、時間がリニアには進まないという点だ。短いエピソードを積み重ねながら、時間が行きつ戻りつする展開は、慣れるまで少し戸惑うかもしれない。それが最も顕著に出ているのが、表題作の「スローカーブを、もう一球」だ。

 猛練習とは無縁、野球に関してはまったく無名の高崎高校が、エース川端投手の、打者をおちょくるような超スローカーブを武器に関東大会を勝ち上がる。創部以来の快挙。すぐに負けると思っていた監督は急いで旅館の宿泊を延長し、学校は宿泊費の捻出に走る。学校も、監督も、選手自身も、予想もしていなかった展開だ。

 そして迎えた決勝戦。川端投手は、対戦相手の3番打者、プロ野球のスカウトも注目する月山選手に、めずらしく対抗心を燃やす。

 川端は曲がりくねった道を歩いていきそうな自分を、感じることがある。夢がそのままの形で実現するようなことはないだろう。ヒーローになんて、なれるわけないんだと思う。人生、劇画のように動きやしない。

 川端は月山を見た。無性に抑えたくなった。

 そこから山際氏は、川端投手と月山選手との全4打席を順に描いていく。そして最終打席。

 キャッチャーの宮下はサインを送った。

 この直後、川端は月山を三振にうちとり、そこで力が抜けてしまったかのように4安打を浴び、県大会以来初めて敗戦投手になった。スコアは2—5であった。

 その結果が出てしまう前の、月山の第四打席三球目のシーンで、川端俊介の話を終わらせてみたい気がする。

 キャッチャーの宮下がサインを送ったわけだった。川端はその指先を見た。

 その指の形はこういっている──

 そして、川端投手が投球モーションに入ったところで、この作品は終わる。数行前であっさりと試合結果を告げておき、あえて時間を数分巻き戻す。まるでクライマックスの盛り上がりを拒否するような、静かなラストだ。

 この作品集には、広島カープ日本一の瞬間を描いた名作「江夏の21球」、モスクワ・オリンピックに出られなかったボート選手を描く「たった一人のオリンピック」、他にも、棒高跳びやスカッシュ、ボクシングの選手を描いたものなど、8つの短編が収録されている。そこには勝者もいれば、敗者もいる。

 暑苦しいスポ根ものではなく、もっとクールで淡々としたスポーツ物語を読みたい方には、ぴったりの短編集だ。

追記

 正統派の書評は他の方に任せて、私は編集・製作目線で本を紹介して行こうと考えていたのですが、ふたつ目にしてこんなことに。尾藤監督の訃報をきいて、抑えきれなくなりました。スイッチが入ってしまったんですね。照れ隠しにちょっとハードボイルド調で書いてみました。

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