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『笛吹川』深沢 七郎(講談社文芸文庫)

笛吹川

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「夢もない、希望もない、オールもない」

 武田信虎、信玄、勝頼らが治める甲州の石和(いさわ)、笛吹川のそばに「ギッチョン籠」と呼ばれる掘っ建て小屋が立っていた。「笛吹川」はそこに住む農民一家を描いた深沢七郎の長編小説だ。

 大雨のたびに堤を破り瀬が変る笛吹川の前で、自然の驚異に翻弄されなす術もなく逃げ惑う農民の姿と、封建社会の中でただ生まれ死んでゆく農民たちの姿が二重写しのように描かれてゆく。

 ただ、運命を川の流れに喩えるといっても、もちろん人間滅亡教の「深沢教祖」の作品だから、「川の流れのように おだやかに この身を まかせていたい」(「川の流れのように」)なんてものではない。どちらかというと「時の河を渡る船に オールはない 流されてく」(「Woman—Wの悲劇より」)に近いかな。感傷の先にそこはかとない希望を感じさせるというより、「人間なんて時代に翻弄されまくって意味もなく死んでくもんだ。それがどうした!」ってな感じで、農民一家六代の浮ばれない人生を、じつに淡々と描いていく。その「淡々」具合がハンパではない。

 深沢七郎の代表作である「楢山節考」では、おりん婆さんと隣家の爺さんとの死に様の対比など、まだ死の描き方に軽重があったし、そもそもおりん婆さんには、自分の生き方を貫く強い意志が感じられた。

 また、おりん婆さんが自分の歯を砕く場面や、楢山に着いて息子の背を「どーん」と押す別れの場面など、感動がわき起こってくるような印象的な場面があった。

 「楢山節考」を読んだとき、これは「どーん」を描くために書かれた作品なんだろうな、と感じた。おりん婆さんをからかう孫、村に伝わる楢山節という歌(「作詞作曲・深沢七郎」という楽譜が残っていたりするが……)、生に執着する隣家の爺さんの存在など、すべてが「どーん」を効果的に演出するための道具立てとなっている。計算し尽くされた名短編だ。

 一方「笛吹川」では、そんな演出はほとんど見当たらない。そもそも長編だけに一つ一つのエピソードの占める比重が薄まっているし、著者は故意に、特定の登場人物を印象づけるような、過剰な演出を避けているようにも見える。そこでは、個人の意志や思いは簡単に黙殺され、裏切られ、人々はただ時代に翻弄されるのみだ。

 『笛吹川』の舞台は、ほとんど石和のギッチョン籠の周辺に限られている。

 信虎、信玄といった名前は出てくるが、歴史の教科書に出てくるような出来事は、あくまでその外部にある。川中島や長篠の合戦も、その戦闘の様子が描かれることはなく、参加した者らの伝聞として、他所で起った出来事として描かれるだけだ。

 「いくさは遠くでやっているのでごいす、この辺にゃ用がないのでごいす」(p. 179)

といった具合だ。

 ギッチョン籠という家の中にいる限り人々は安全であり、他人に命を取られることはない。しかし、ここから出て行った者は、いくさで死ぬか、お屋形様(武田家)の怒りを買って殺されるか、そのほとんどが犬死にする。

 舞台を一ヵ所に固定することにより、「物事は自分たちの与り知らぬところで動いている」という印象がいっそう際立ってくる。

 しかし、とうとうラストで、お屋形様(勝頼)の敗走とともにいくさがこの土地にもやってくる。ギッチョン籠の定平・おけい夫婦は、いくさとともに帰ってきた息子たちの豹変ぶりに驚く。

 ……そう云うと惣蔵も怒り出した。でかい声で、

 「先祖代々お屋形様のお世話になって、今……」

 と云った。定平は腰がぬける程びっくりした。

 「先祖代々」

 と、思わず口の中で云っておけいの顔を見た。おけいも、惣蔵がとんでもないことを云い出したので開いた口が塞がらなくなったのだった。定平もおけいも、お屋形様には先祖代々の恨みはあっても恩はないのである。先祖のおじいは殺されたし、女親のミツ一家は皆殺しのようにされてしまい、ノオテンキの半蔵もお屋形様に殺されたようなものである。(中略)惣蔵は気でも違ったのではないかと思った。(p. 204)

 「恨みはあっても恩はない」というお屋形様に付き従い、ともに討ち死にしようとする息子と娘を連れ戻そうと、おけいは兵士らの後を追っていくが、おけいの説得に従う者はいない。

(みんな死んでしまうじゃねえか?)と思うと涙がまたこぼれて来た。人垣の中から顔を引っ込めた。すぐそばの芽をふいたばかりの桑の畑の横に腰をおろして声を立てて泣いた。そうして(ウメがどうしてもお屋形様と一緒に行くと云うなら、自分も一緒にどこまでもついて行こう)と思った。(p. 220)

 このようにして、結局おけいも破滅へと向う濁流に飲み込まれてゆくのだ。

 いくさがこの土地を通過するあたりから、物語が少しザワツキはじめる。

 お聖道様(勝頼の異母兄?)の最期を看取りに向ったおけいの息子たちの合戦シーンなど、例外的に「ここを出ていった者」をメインに描いた部分があり、それがアクセントにもなっている。ただ、一歩間違えると立川文庫になりかねないような展開には少しとまどった。この調子でおけいの最期までいってしまうとクサくなるし、全体の構成上でも浮いてしまうよなあ、なんてことも思ったが、しかし、物語は最後の最後に落ち着きを取り戻す。

 ここでの深沢七郎は、クライマックスに向かい盛り上がろうとする物語を無理矢理押さえつけ、それまでの「淡々」とした語り口になんとか引き戻そうとしているように見える。勝手に走り出そうとする物語の首根っこをつかんで、押さえつけている深沢の姿が目に浮かぶようだ。そして深沢が冷静さを保とうとすればするほど、文章は逆に凄みを増し、やがて澄み切ってゆく(このあたりでなぜか野坂昭如の小説「火垂るの墓」を思い出した。とくに、清太のあっけない死に際の描写だ)。

 その甲斐あってか、物語は破綻することなく、笛吹川で「あしたの米」をとぐ定平の姿に見事に収斂され、綺麗に終わっている。綺麗ではあるが、さすがは深沢教祖、その先に、希望はない。

追記

 ちょうどいま、山梨県立文学館で「深沢七郎の文学『楢山節考』ギターの調べとともに」展(9月10日〜11月6日)が開催されているようです。ギタリストでもあった深沢七郎の企画展、面白そうです。

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