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『昭和の読書』荒川洋治(幻戯書房)

昭和の読書

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「こわい批評家」

 もう十年以上前になるが、あるパーティで荒川洋治さんをお見かけしたことがある。「下手に俺に話しかけるな」という風情が漂っていて、いい意味で「こわい人」だなと思った。もちろん、筆者は話しかけなかった。

 文章を書く人が「こわい人」であるのはとても大事なことのような気がする。最近は「いい人」でないとなかなか生き延びていけない。多弁で、裏表がなくて、私生活もオープンで、パスタを茹でたり、SUVに乗ってたり、メールの返信も早いような「いい人」。そんな「いい人」の書くものは、わかりやすくて楽しいかもしれないが、一番文章にしてもらいたいような薄暗い部分にはまず到達しない。

 本書の『昭和の読書』というタイトルの意味は、読み進めていくと少しずつわかってくる。表向きそれは、昭和の作品や作家を語るということ。昭和の本の読み方、文章の書き方、さらには生き方を振り返るということ。さらには文学を「史」という立場から読み返すこと。だが、本当の目的は昭和独特の薄暗い部分に足を踏み入れることにある。

 冒頭の「茶箱」と題されたエッセーには、著者が実家で体験した次のような出来事がつづられている。

裸電球の下に、とても大きな茶箱があった。きらきらするブリキを内側に張った、容量のあるものだ。なかを開くと、四〇年ほど前、高校のころに買った雑誌が見つかった。茶箱に入っていたので、いたみもなく、当時のままで現れた。

 おぼえはあるが、これだけ月日がたつと初めて見るようなものだ。(10)

ノスタルジアではない。むしろ逆だろう。「これだけ月日がたつと初めて見るようなものだ」とあるように、著者はブリキを内側に張った茶箱から、私たちの「今」と拮抗するような何かを取りだそうというのである。

 しかし、どうやって? この本を読んでいるとときどきはっとするのだが、著者がいつの間に語るのを停止していたりする。書き下ろしのいくつかの文章――「昭和の本 I」「昭和の本 II」「名作集の往還 I」「名作集の往還 II」など――がとくにそうで、ふと気づくとタイトルなどの書誌情報が延々と連ねられるだけになっている。語り手が黙ってしまうのだ。そんなときは、どうやら蔵書や古書店で得た「昭和の本」が目の前に実際にならべられていて、著者はそれを手に取ったり頁をめくったりしているらしいのだが、それにしてもこんなのあり?と思う。しかし、不思議なのは、「こんなのあり?」と思いながらもこちらが読んでしまっていることだ。騙されたようなもので、読んでいるという意識もなしに何かを追っている。

 もちろん、単なる陳列ではない。よく見ると、さりげなく短いコメントが挟まれたりしている。そうすることで、著者はぴりっとした空気をつくる。本と向き合うのになくてはならない空気、あの緩いけれども硬いような、馴染んでいてもどこかよそよそしいような空気。「下手に俺に話しかけるな」という気配とも通じるもので、たぶんそのおかげではじめて本が伸びやかに呼吸をはじめることができるような、文章が書かれたり読まれたりするのに欠くことのできない、独特の「暗さ」がそこにはある。

 その背後には昭和の評論のスタイルが感じられるかもしれない。批評家はしゃべりすぎてはいけない。黙るときは黙る。荒川洋治という人は書評をするときにも、ふらっと立ち寄ったような遭遇を演出できる人だ。マラマッドの「レンブラントの帽子」の翻訳が再刊された、この小説は絶妙だ――そんな話をするときにも、次のような一節が混入していたりする。

欧米の短編は、これまでにたくさん訳されてきたが、日本語に変えられたとたんに、また欧米の側に戻っていってしまうような距離をぼくは感じる。(213)
何という語り口だろう。何という上手な黙り方かと思う。こういう黙り方を知っているからこそ語られることがある。おそらくそれは著者が、長い間、口語自由詩というフィールドで勝負してきたこととも関係している。散文に対して、ちょっと距離がある。散文でしか書かない人とちがって、声の出し方にきわめて敏感なのだ。語りやめるという方法があることも当然知っている。そして、批評家はもっと詩を語るべきだ、と著者は言う。

散文という装置は、近代になって、伝達のために発達したもので、一定の理法に従い、機械的に書くもの。思っていないことも、すらすら書く。そういう怖さと危険がある。散文は、人工的なもの、つくられたもの、異常なものである、というぼくの見方は変わらない(『文学の門』で書いた)。詩は個人のことばの上にたつので、感受したものについて正直であるが、過剰になれば異常。だが散文の異常性を認識する人は少ない。散文を自明のものとする人たちに、散文の限界点はもっと意識されていい。(202)
これは、まさに昭和の書き方だ。そしてそれは著者が言うように、昭和の書き手がより身近に「詩」と付き合っていたということを意味するのかもしれない。このように書くことを、たとえば筆者は禁じられてきたように思う(つまり、かつては知っていたようにも思う)。これからもたぶん、このようには書かないと思うし、書けないだろう。しかし、このような文章にこめられた「暗さ」は、懐かしいとかそういうことではなく、力強いものだ。

 こうした筆法にもあらわれているように、荒川洋治という人は「こわそうに見える」だけでなく、ほんとうに「こわい人」なのである。そんな著者がこの本の中で一番一生懸命語ろうとしているのは、やはり詩のことだ。そして、詩のことを語るうちに、著者は「暗さ」をかなぐり捨てる。黙っている暇などない、とでもいうかのように。

この一〇年ほどの間に、四〇代、五〇代の若手詩人によって戦後・現代の詩華集が何冊か出た。名前はあるが(せまい詩の世界では)、実はすぐれた詩をひとつも書いたことのない人、ことば上の革新的な仕事を十分にこころみたことのない人、書く詩が凡庸で、代表作ひとつもたない人。そんな人たちが選ぶので、詩華集も奇妙なものになる。(192)
書く詩は、単純なものが多い。類型的な語句や書き方に慣れ、そこに逃げ込む。現実の具体的なことがらにまみれて、苦しむ人は少ないのだ。論争ひとつないので、変化もない。みなで互いの詩をほめあう世界だ。こういうときに期待されるのは、詩論を書く人である。詩の内部にありながら、外側から見る力をもつ人たちだ。その人たちは、詩も書く。その詩は、何をかんちがいしているのか、自分の詩論とはまったく異なる無頼派ぶったもの。詩はロマン(詩のなかでいちばんつまらないところだ)なのだという考え方があるようで、いきなりしまりのないロマンチストになるのだ。読んでいて、おかしい。(193~194)
こういう箇所にはむしろ著者の「こわさ」は見られないと筆者は思う。「こわさ」を生むのは、硬質で冷たい切れ味である。無言の批評である。荒川洋治は昭和を語るという地点から出発しながら、その「暗さ」からこのように踏み出してしまうのである。しかし、そのおかげで我々は荒川洋治という批評家・詩人の現在形の声をあちこちで聞くことができる。それが本書のほんとうの魅力。こわい人、苛立つ人、一生懸命な人、そしてときにすごくやさしい人、そんな多面性がそのまま本になっているところが実におもしろいのである。


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