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『技術と時間1——エピメテウスの過ち』(未邦訳)ベルナール・スティグレール<br><font size="2">Bernard Stiegler, 1994, <I>La technique et le temps 1. La faute d’Épiméthée</I>, Galiée</font>

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●「根源的問いとしての技術――ベルナール・スティグレール

「冒険」」

 『エピメテウスの過ち』は、ベルナール・スティグレールの数多い著作のなかでも、その技術哲学の基礎をなしている主著の『技術と時間』シリーズ(2007年現在で第三巻まで刊行)の、1994年に刊行された第一巻である。

 『技術と時間』シリーズにおいて技術は、大まかに言って二つの角度から扱われる。一方ではそれぞれの時代においてそれぞれの特定の配置をとるものとしての技術が、その通時的変遷のただなかにおいて取り上げられる。ここで問題となるのは「時間のなかでの技術la technique dans le temps」である。他方で技術はその根源性において、時間そのものの地平を構成するものとして取り上げられる。ここで問題となるのは「時間としての技術la technique comme temps」である。技術の問いが扱われる際のこれらの二つの観点は『技術と時間』シリーズを織り上げる二つの軸となっており、つづいて見ていくように『エピメテウスの過ち』もまたその二つの軸に貫かれている。

 「時間のなかでの技術」という観点においては、スティグレールアンドレ・ルロワ=グーランの先史学から引き継いだ歴史人類学的な射程において議論を展開する。環境における淘汰に直接さらされる動物とは異なり、人間は技術をいわば環境との間のインターフェースとして作り上げる。その上で「組織された無機的物質la matière inorganique organisée」と呼ばれるこのインターフェースは、物理的ダイナミズムにも生物学的ダイナミズムにも還元されない「固有のダイナミズムune dynamique propre」(p30)を有するとされる。スティグレールは次のように述べる。

人間と物質との動物技術論理的関係le rapport zootechnologiqueは、生物の環境への関係の独特な一例であり、それは人間と環境との、技術的客体という組織された不活性な物質を迂回する関係である。その特異性は、技術的客体という不活性でありながら組織された物質が、その組織化においてそれ自身で進化していくという点にある。それはそれゆえもはやたんなる不活性な物質ではないし、しかしかといって生きた物質であるわけでもない。それは、生きた物質が環境との相互作用において変容していくように、時間のなかで変容していく組織された無機的物質である。さらにいえばそれは、人間という生きた物質がそれを通して環境との関係を築くところのインターフェースとなるのである。(p63)〔強調は原著者による。以下も同様〕

 このように「組織された無機的物質」たる技術は独自の進化のプロセスのなかにあるとされるのだが、だとすればそこで問われるのは人間と技術との関係である。たとえ技術の進化が「固有のダイナミズム」に従うものであるのだとしても、その発展は実際には人間の関与なくしては不可能であるからだ。スティグレールはこの問題を「誰qui」と「何quoi」の関係の問題として捉え、この両者の間に働く運動を描き出そうとするのだが、そこで持ち出されるのがジャック・デリダによる「差延différance」の概念である。デリダによって遅れをもたらしつつ差異を生み出していく運動として定義された差延の概念をスティグレールは技術という位相を説明するものとして捉え直し、その上で人間と技術との関係は「代補supplément」の関係をなすものであるとする。代補とはある欠如を補うものであるが、しかしその代補はそれが補うはずの当の欠如そのものを生み出していくようなパラドキシカルな運動である。スティグレールはルロワ=グーランが身体の機能の「外在化extériorisation」と呼んだプロセスを、このような差延的な代補の運動として捉え直して次のように述べる。

この外在化のプロセスに含まれる運動は、ルロワ=グーランが述べているのが実際には、人間を発明するのは道具、すなわちテクネーであり、人間が技術を発明するのではないということである限りで、パラドキシカルなものである。さらに言えばこうである。人間は道具を発明しながら技術においてみずからを——技術—論理的にtechno-logiquementみずからを「外在化」させながら——発明するところで、このとき人間とは「内部」である。ただし、内部から外部への運動を意味しないような外在extériorisationは存在しない。またその一方で、内部はこの運動によって発明される。内部はそれゆえ外部に先行することはできない。内部と外部はしたがってそれらを同時にそれぞれ発明する運動において構成される。それは、そこでは一方が他方においてみずからを発明するような運動であり、あたかも人間と呼ばれるような技術—論理的なある産婆術というものが存在しているかのようである。(p152)

ここに見られるのは、スティグレールが『エピメテウスの過ち』の第一部のタイトルとして選んでいる「人間の発明l’invention de l’homme」という表現の両義性の意味である。一方でそれは人間「による」発明と解釈でき、他方でそれは人間「を」発明することであるとも解釈することができる。それをスティグレールは一方が他方のうちである遅れのなかで生み出されていくという差延的代補の運動として捉え、そのプロセスそのものを人間と呼ぶべきであると示唆する。とすればここではもはや、人間と技術とを主体/客体や目的/手段といった二項対立的カテゴリーに当てはめることはもはや問題とはならなくなっている。

 そこにおいて人間が構成されていくプロセスの場としての技術=人工補綴(代補としての技術はまた人工補綴prothéseとも呼ばれる)とは、スティグレールが「組織された無機的物質」と呼んでいた「存在者の第三のジャンルun troisième genre d’«etants»」(p30)に属するものである。それをスティグレールはさらに記憶の問題として捉え返すのだが、そこで持ち出されるのが「後成的系統発生épiphylogenése」という新しい概念である。生物学的次元では記憶は、遺伝子として伝えられていく遺伝的記憶と、それぞれの個体が蓄えていく神経的記憶しか存在しない。しかしスティグレールによれば人間には、環境とのインターフェースとしての技術という「組織された無機的物質」という層が存在しており、これが人間独自の記憶の系の可能性をもたらしている。それゆえスティグレールは、そのような人間独自の記憶の系を「遺伝的記憶la mémoire génétique」と「後成発生的記憶la mémoire épigénétique」から区別し、「後成的系統発生的記憶la mémoire épiphylogénétique」(p185)と呼ぶ。この記憶の系においては、いわば「獲得形質」(ラマルク)の伝達が行なわれるのであるが、その伝達の支持体は遺伝子ではなく「組織された無機的物質」としての技術である。

 ここにおいて技術の問いは歴史の問いと結びつく。というのも、技術という「組織された無機的物質」において可能となる後成的系統発生的記憶とは、まさしく人間という種に固有の集団的記憶としての歴史に他ならないからだ。このスティグレールのヴィジョンにおいては、人間と技術との関係は人間と歴史との関係に平行する。技術が「固有のダイナミズム」にしたがって発展していくように、集団的記憶としての歴史もまた個人には還元されえないダイナミズムを有している。生まれ来る人間はそのような歴史のなかに投げ出されることで自分を形づくり、そして同時にそのプロセスのただなかで歴史そのものを作り上げていく。ところで人間と歴史とにまつわるこのような問題圏は、いうまでもなくマルティン・ハイデガーが『存在と時間』において引き受けようとしたものだ。それゆえ『エピメテウスの過ち』の後半部はハイデガーの読解に割かれている。

 ハイデガーは「事実性Faktizität」という概念において、現存在がつねにすでに世界へと投げ出されてしまっているというその存在様態を現存在分析の出発点として強調し、さらにその「事実性」を「手許的存在者Zuhandensein」という道具的な存在者と結びつけもした。ここには「後成的系統発生的記憶」と「組織された無機的物質」のテーマがともに見出される。しかしハイデガーは「本来的/非本来的」というきわめて形而上学的区別に依拠することで、結局は技術を「非本来的」なものとしてしか捉えることができなかったとスティグレールは述べる。

ハイデガーは器械instrumentについて考えただけではなく、器械から出発して考えもした。ただその一方で、彼はそれを十分に考えつくすことはなかった。というのも彼はそこに、独自の地平、剥き出しでさらには予見不可能なあらゆるものの根源的に機能不全的な地平を見ることはなかったし、存在の時間性を固有に立ち働かせるもの、過去への、それゆえ未来へのアクセスを通して技術—論理的に構成されるもの、そこにおいて歴史的なるものそのものを構成するものを見ることはなかったからだ。彼はつねに道具outilを(たんに)有用なものutileとしてのみ考え、器械を道具としてのみ考えて、そのことによってたとえば世界に指示を与える芸術としての器械というものを考えることができなくなってしまった。(p250)

ハイデガーは技術というものに大きな地位を与えながらも、根源的な構成性の場面からは技術を排除し、それを現存在のためだけにとっておくのだ。

 このようにハイデガーが一方では「組織された無機的物質」としての技術の根源的な構成性を無視してしまうのだとすれば、他方でハイデガーは「後成系的統発生的記憶」としての歴史性からもまたその根源性を剥奪する。スティグレールハイデガーが「世界=歴史Welt-geschichte」と呼ぶもののうちに「後成的系統発生的記憶」のテーマを読み取る。そこでもハイデガーは現存在がそこへと投げ出されるところである「世界=歴史」に大きな地位を与えるのであるが、「しかしハイデガーはその特権性を即座に限定し(・・・)、それを二次性というカテゴリーのもとへと格下げしてしまう」(p272)。

 実際には、そこで排除されている二つのものは不可分に密接に結びついている。というのも蓄積されてきた歴史は、それにアクセスするための技術的配置なくしては存在しえないからだ。それゆえスティグレールは「何」という名において、特定の「組織された無機的物質」としての技術的配置と、それを通してアクセスされる「世界=歴史」とを同時に捉えようとする。それらはどちらも後成的系統発生的なものであるからだ。ここに、スティグレールにとっての技術の問いの根源的地平が存在する。




 エピメテウスとは遅ればせに考える者である。スティグレールはそのエピメテウス的遅れというものを、「何」に対する「誰」の遅れとして捉え、そこに人間と技術との根源的なあり方を見出す。そしてそのような遅れこそが、まさしく形而上学によって忘却されてきた当のものであるとスティグレールは主張する。

エピメテウスはたんに忘れやすき者であるというだけではなく、そこにおいて経験到来するものとして。過ぎ去り、反芻されなければならない起こってしまったものとして)が構成される本質的な軽率さの形象であるというだけでもない。それはまた忘れられた存在でもある。形而上学から忘れられた存在であり、思想から忘れられた存在である。(p194)

「あらかじめ考える者」であるプロメテウスは、その未来を見越す能力においてつねに人間の技術を象徴する神として受け入れられてきた。それに対してスティグレールは、遅れの形象であるエピメテウスに焦点を当てる。エピメテウスの形象とともに忘れ去られてきた遅れの意味を思考すること、それはスティグレールにとってはとりもなおさず「時間としての技術」を思考することでもある。技術はたんに時間のなか、歴史のなかに存在する偶有的な存在者であるわけではなく、まさしくそれ自体が時間として、歴史として特殊な記憶を構成するものであり、エピメテウス的遅れとは、そこに開かれる時間性と人間との根源的で構成的な関係性の性格のことを指す。そこではもちろん言語の問題も無視することはできないが、しかしスティグレールによれば言語もまた技術の一種であり、スティグレールは西洋的なロゴスについても「何」の歴史という観点からそれを論じている。しかしそれは主に第二巻での作業である。




 『エピメテウスの過ち』で展開されている「時間のなかでの技術」と「時間としての技術」という二つの軸は、第二巻以降においても同様に絡まり合いつつ技術の問いをより深く探っていく。たとえばスティグレールは、第二巻においては写真とフォノグラフ第三巻においては映画という特定の「時間のなかでの技術」に焦点を当てながら、それらへの問いかけを通して「時間としての技術」の問いをさらに深めていく。またそこでは同時にフッサール(第二巻)カント(第三巻)が、すなわち形而上学のひとつの根幹をなす議論が技術の根源性という観点から根本的に読み替えられていくことにもなる。『エピメテウスの過ち』はスティグレールのその「哲学的冒険」の第一歩を画するものである。そしてその「冒険」はいまだ現在進行形であり、それがどこまで到達し何を獲得するのか、その射程を総括的に描き出せる段階ではまだない。ここではごく控え目に、その「冒険」が現代において最大限の注視に値するものの一つである、というこの上なく確実な事実だけを述べるに留めておく。

(谷島貫太)

・関連文献

Derrida, Jacques. De la gammatologie, Minuit,1967. (『根源の彼方に』,足立和浩訳,現代思潮社,一九七二年)

Leroi-Gourhan, André. Le geste et la parole 1,2, Albin Michel,1964-1965.(『身ぶりと言葉』,荒木亨訳,新潮社,一九七三年)

Heidegger, Martin. Sein und Zeit,1927. Tübingen, Max Niemeyer,1963.(『存在と時間』上・下,細谷貞雄訳,ちくま学芸文庫,一九九四年)

・目次

  全体のイントロダクション

     第一部 人間の発明

  イントロダクション

   第一章 技術進化の諸理論

   第二章 技術論理(テクノロジー)と人間論理(人類学)

   第三章 《誰?》《何?》人間の発明

     第二部 エピメテウスの過ち

  イントロダクション

   第一章 プロメテウスの肝臓

   第二章 すでにそこに

   第三章 《何》の救出

・関連書評

『技術と時間2——方向喪失』(未邦訳)ベルナール・スティグレール

『技術と時間3——映画の時間と難—存在の問い』(未邦訳)ベルナール・スティグレール

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