『グラモフォン・フィルム・タイプライター』フリードリヒ・キットラー(筑摩書房)
●「メディア論的啓蒙の書」
本書は、フリードリヒ・キットラーの第四番目の書籍であり、『書き込みのシステム 1800/1900』(未邦訳)と並ぶ主著の一つである。最近では情報工学への言及が多いキットラーだが、彼が初期のドイツ文学研究からメディア(史)論へとその知的関心をシフトさせていくなかで、本書は書かれたものだ。
前著『書き込みのシステム』でも『グラモフォン』(以下、引用文はGFTと表記)においても、キットラーは、フーコーが「言葉と物」をめぐる考古学的考察において、スキャンダラスにも「人間の終焉」を見出した20世紀初頭以後に、おりしもフーコーが言説分析を行う際に準拠した「言葉の終焉」を看取する。本書では、そのことを「フーコーのディスクール分析は、音の保管庫、映画のリールの山を前にして機能不全に陥ってしまう」(GFT:16)と述べている。――フーコーの言辞を額面どおりに受け取る必要はないが、――確かに、言説分析は「テクスト、書物、作品などを貫いてのそれら〔諸言説〕の匿名の分散を、記述する」(Foucoult:92)思考スタンスなのである。キットラーがフーコーに語りかけるのは、≪1800(19世紀末のニュー・メディア登場以前)≫を支配する知の集積のありよう(アルシーヴ)が、ほかならぬ≪1800≫における「文字」という書き込みのシステムの効果であること(北田:63)であり、≪1900(ニュー・メディア登場以後)≫においては、「「人間」を支える書字の独占が終焉」(GFT:155)したことなのである。
本書でキットラーは、≪1900≫に誕生するニュー・メディア技術(グラモフォン・フィルム・タイプライター)と精神分析学をめぐる、抜き差しならぬ共犯関係を丹念に記述していく。キットラーは「現代の精神分析学における方法論的区別が、メディアによる技術的区分と寸分のちがいもなく重なっている」(GFT:31)と言い、ラカンの精神分析を下敷きにして「サンボリックなもの=タイプライター/イマジネールなもの=フィルム/リアルなもの=グラモフォン」というメディア区分を設ける。≪1900≫における書字/視覚/聴覚の技術的な差異化と新たな身体性の経験。これがここでの骨子である。上記の記述からも分かるように、分析枠組みとして準拠するラカンの精神分析でさえも、本書ではフロイトとともに歴史記述上での分析対象として包摂されている。ここにキットラーのトリッキーさがある。
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かつてソシュールらが明らかにしたように我々は、言語の分節機能が働く世界に生きている。キットラーによれば、それは≪1800≫の地平に留まる。音響上のあらゆる出来事を、それ自体としてそのままに記録し保存するグラモフォン(蓄音機)の発明は、言語によって捕捉不可能な領域を開拓した。我々の身体が経験するのは、もはや言語に託された意味世界だけではない。それは言語や記号の秩序にさきがけて表れる理解不能なノイズやざわめきである。「信号とノイズがめちゃくちゃに入り交じって、録音してもなんの意味もないし、聞こえてくるのは、・・・せいぜい始原のざわめきでしかない」(GFT:114)。音響メディアは「言語による分節化を無効」(GFT:42)にし、言語の混乱と無意識の領野、すなわち言語では表現不可能なリアルなものを再生可能にする。だからこそ、フロイトによってなされた「無意識」を析出するための「トーキング・キュア」は、まさに、リアルなものが録音できる蓄音機において可能になったのであり、また「マジック・メモ」は、針先によってレコード盤に刻み込まれる音溝とのアナロジーにおいて「発見」されたのである。たとえば、自分の声を録音しそれを聞いたとき、我々は「これが自分の声か!?」と驚く。そのとき、私の身体が「寸断」されていることに気づく。録音による再現以外では、自身では聴取不可能な頭蓋骨に反響した自分の声、すなわち他人に聞こえる自分の声。それは自分にとってのリアルなもの、すなわち「始原のざわめき」である。キットラーは「頭蓋骨の溝」を「蓄音機のシリンダーに刻み込まれた音溝」に見立てたが、このように考えてみると、それは言い当て妙である。
グラモフォンでは音声データの「再生・保存」が可能になったのに対して、フィルム(映画)では映像データの「操作・編集」が可能となる。フィルム・トリック、モンタージュ、カット、スローモーション…。その効果として、1秒当たり24コマに切断され編集させられた身体は、それを見る者によって「映画のスクリーン上だと動きがなめらかに持続しているように錯覚される」(GFT:30)。映像に映し出される自分をみて、人間は自身の身体が切れ目なく動いているように、そして自己を永続性を備えたひとつの統一体として想像する。それは「これが自分か!」と想像する歓喜の瞬間である。≪1800≫においてロマン主義小説や文学が担っていた自己の想像力の喚起という役割は、≪1900≫以降では映画という映像編集メディアに託される。しかし両者が掻き立てる想像力は同形ではない。文学の読者が思いめぐらす想像力が統一性を保っていたとすれば、映画の観客における想像力は分散的である。映像に映る自己とはそれが自分のようにみえるだけで、ほんとうは映像編集技術を施されたものの幻視、ドッペルゲンガーでしかない。歓喜の瞬間はつねに一時的で最終的には失敗に終わる。≪1800≫において、絶対に欺かれることがないと信じられていた主体は、絶えず切り替えられ、置き換えられ、欺かれていくのである(GFT:256)。人間の視覚による映像の認識と、映画の視覚作用による自画像の誤認。ラカンにおいて「鏡像」に位置するイマジネールな世界とは、キットラーにおいては「動く鏡像」、つまり映画のスクリーンの世界なのである。このとき「映画=イマジネールなもの」ということに最も敏感であったのは、実は「鏡像=イマジネールなもの」を発見した精神分析学自身なのである。キットラーは言う。ラカンが鏡を見て喜ぶ幼児の姿をフィルム映像に収めていたことは偶然などではない、と(GFT:30)。つまり、ラカンがイマジネールな世界を発見したそのとき、彼自身すでにイマジネールな世界の住人であったのである。
最後にサンボリックな世界。ここでタイプライターは――発明時期においては上述の2メディアに先行するタイプライターが、本書末部に据えられていることからも――メディア技術の歴史にとっては傍証的な扱いとなっているようにもみえる。そこでは身体性とともに「性差」に視点がある。「タイプライターは映画のようにイマジネールなものを煽りたてることはできず、蓄音機のようにリアルなものをシミュレートすることもできない。それはただ書く者の性を転倒させるだけなのだ」(GFT:284)。≪1800≫の文字・書字という書き込みシステムに裏付けられた作者=男性性という特権は、タイプライターの登場によって女性化(女性秘書・作者の登場)し、のちに書記行為は脱・性化される。「機械による自動筆記は、古典的な尖筆による男根ロゴス中心主義を無効にしてしまう」(GHT:316)。デリダは男根中心主義や音声=ロゴス中心主義という用語を用いて、西洋形而上学の中心原理の頓挫(脱構築)を戦略的に試みたのだが、キットラーはそれを「タイプライターの登場」というきわめて歴史技術的な「事実」として説明する。ここから理解できるように、キットラーのいうサンボリックなものとはラカンの象徴界の単なる焼き写しではない。つまり≪1900≫以後の象徴界とは、父(言語を操る男性作者)のいる世界ではない。それは脱・性化されたうえで、言語記号の差異性が極端に徹底化、先鋭化された世界なのである。この徹底化は言語がもたらしたような安定的な世界を招きはしない。なぜなら、タイプライターの書字は言語の分節化作用によって安定性を保持していた意味世界を、さらに分節化(むしろ細分化)する。そこでは、シニフィアンとシニフィエの関係は、たとえば、筆跡上の「rose」と<バラ>から、キーボード上の「「r」「o」「s」「e」「Enter」」と<バラ>へと変換される。一定の間隔(スペース)を伴って配列された機械的なアルファベットと数字記号=タイプライターの書字。それは、文章の意味を拾いながら、行書や草書のように文字間を流れるように繋げていく筆跡上の経験とは異なる。あるテクストの文章を手書きではなくキーボードを使用して転写するとき、まれに、その文章を理解せずに打ち込んでいる自分に出会う。意味の捕捉とは別に自動的にタイプライトしてしまう自分。これこそが、キットラーの言うサンボリックなもののありかを端的に物語っている。ラカンは、主体化の契機が象徴界における言語であることを示したが、タイプライターは我々を主体化させると同時に、主体化をつねに脱臼させる。つまりタイプライター以後、我々は言語の世界で生活することをいっそう余儀なくさせられているのだが、しかし一方で、言語が要請する意味世界へと到達することは困難になっているのである。
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メディア技術とそれによる身体経験が縦横無尽に我々の意識下を行き来する≪1900≫。自身の認識が到達できぬところで、メディアや情報技術によって人間の無意識の領野が不断にも切り開かれている時代。キットラーを含めこれまでの学問的な知見を踏まえれば、メディアと言語はおなじく無意識の領域にあることになる。我々は言語による分節機能が働く世界で生活を強いられ、さらにメディアの分節機能が働く世界で生かされてもいるのだろうか。いや、ここではキットラーが説明するように、言語というよりはメディア一般(書き込みのシステム)に我々は服従=主体-化している、と言うべきだろうか。しかし、いずれの問いにも答えを求めることは難しい。なぜなら≪1900≫においては絶対的な意識をもって「メディアを理解することUnderstanding Media」(マクルーハン)など不可能なのである。キットラーの提示したメディア図式は、我々にポスト構造主義が行ったのとおなじ強度をもって、言語論的転回の引き受け方の再考をふたたび余儀なくさせている。
とはいえ、キットラーの主眼は、世界を成立させている根拠が「言語にあるのか、それともメディアにあるのか」という思弁的問いに決着をつけることではない。ともすれば、技術決定論として一括りにさせてしまいそうな方法論的設定を行う一方で、彼は言語とメディアの排他的な関係性それ自体を拒否する。ここでは「言語」はメディア史の枠組みの中で相対化される。キットラーにとって文字言語は「言説」のひとつ、ないしは「言説」の歴史的なものの効果にすぎない。この括弧付きの言説とは、「言説=メディア」にほどよく近似する。このことをキットラーは別のところで、「ディスクール=ディスク(ール) ‹Disku(r)s›」と苦笑しながら表記している(Kittler,1993〔=1998〕:11)。もちろんここでの「ディスク」とは「メディア」の代弁である。つまり、フーコーの言説分析の土台を揺り動かすキットラーは、一方で彼の衣鉢を批判的に継ぐのである。
もっとも、彼の継承者としてのスタンスは、本書における歴史記述が≪1900≫から開始されていることからも看取できる。フーコーの書、『言葉と物』において「人間の終焉」として終着点をかたどったもののひとつである精神分析学という学知は、本書では、色彩をかえて「言葉(文字メディア)の終焉」として分析の出発点となっている。≪1900≫の書き込みシステムは、フーコーが同書で最後に見出した3つの人文諸科学から、精神分析学だけを巻き込んでいく(Kittler,1985〔=1990〕:278)。本書の大半が、≪1900≫におけるメディアと精神分析学との共依存関係の記述に割かれている理由は、キットラーがラカン派精神分析に親しい文学研究者であることのほかに、フーコーが規定した人文諸科学を再考するという意図があったのだろう。分析の時代区分にしても分析水準としても、おおよそ≪1800≫のなかに留まる『言葉と物』をいったん成仏させ、そのうえでフーコーの意志を≪1900≫におけるメディア・テクノロジーの側から継承すること。キットラーの主張を概説史的にまとめた『書き込みのシステム1800/1900』の出版から時を待たずして、≪1900≫から始まる『グラモフォン』が別途上梓されなければならなかった理由は、おそらくここにあったのではないだろうか。
・引用文献
Foucault,Michel,1969,L'Archéologie du Savoir, Gallimard,(=1981,中村雄二郎訳『知の考古学』河出書房新社).
北田暁大,2006,「フーコーとマクルーハンの夢を遮断する」佐藤俊樹・友枝敏雄編『言説分析の可能性』東信堂,59-87.
Kittler,Friedlich,1985,Aufschreibesysteme 1800/1900.(=1990,Metteer,Michael and Cullens,Chris tr .Discourse Networks 1800/1900.Stanford UP)..
――――,1993,Draculas Vermächtnis , Reclam Verlag Leipzig.(=1998,原克ほか訳『ドラキュラの遺言――ソフトウェアなど存在しない』産業図書).
McLuhan,Marshall,1964, Understanding Media: The extensions of Man , McGrew-Hill Book Company.(=1987,栗原裕・河本神聖訳『メディア論』みすず書房).
・目次
導入
グラモフォン
フィルム
タイプライター