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マシュー・レイノルズ『翻訳 訳すことのストラテジー』(白水社)

Theme 5 未知とのコミュニケーション

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「ブラック・ライヴズ・マター(Black lives matter)」の訳をめぐり「黒人の命も大事」なのか「黒人の命は大事」なのか、議論があった。保守派のいう「すべての命が大事」とセットになるのはどちらかを考えはじめると、英語に対応しない「は/も」の区別が、訳す側の姿勢、世の中に自分のことばを向ける「戦略」を問うてくる。
語学知識だけで「正しい翻訳」にたどり着くことは難しい。本書も翻訳技術の解説書ではなく、翻訳という不思議を考えることに読者を誘い、コミュニケーションとは何かを異なる言葉を橋渡ししようとする「戦略」から考える、「翻訳論」の入門テキストだ。堅苦しい本ではない。マンガの翻訳や、普及が著しい機械翻訳多和田葉子ほか「翻訳」のあわいで活躍する作家など、興味深い話題が並ぶ。限られた紙幅に古今東西、硬軟両方が取り揃えられたなかでも「翻訳の政治」の指摘は、「翻訳論」がなぜいま人種問題やフェミニズムなどにおいて注目されているのか、その理由を納得させてくれる。
訳者は世界文学研究の俊英で、ナボコフの「自己翻訳」についての著作もある秋草俊一郎さんだが、語りかけるような文体、日本の読者のための読書案内、小ぶりでかわいい造本まで、本全体が「オックスフォード超短い入門シリーズ」の一冊である原著の極めて成功した「翻訳」だ。

東京大学出版会 後藤健介・評)