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『近代文化史入門』高山宏(講談社学術文庫)

近代文化史入門

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「記念です」

 ついに高山宏書評コーナー「読んで生き、書いて死ぬ」が終わってしまった。


 内輪でやってると思われても何なので、あえて氏の本を取り上げるのは避けてきたが、日本の英文学を語るには避けられない巨人であることは間違いない。これでシリーズは終わりということだし、ちょうど良い機会。伝説的な『目の中の劇場』は品切れとのことなので、「超英文学講義」との副題のついた本書を読んでみる。

 さて。なぜ「超」なのか。なぜそれでも「英文学」なのか。この副題はたいへん意味深い。高山宏の最大の魅力は、「知」がおもしろいことを教えてくれることである。当たり前だと思うかもしれないが、意外に当たり前ではない。「知」というのは、それなりに修練をへたり、悩んだり、諦めたり、緊張したりする中から紡がれる人間の営為である。そう簡単におもしろがれるものではない。地味で、退屈で、難解なもの。偉そうで、縁遠かったりもするもの。少なくとも筆者は、そう思う。

 高山宏の功績は、この際どい「知」の営みを、その際どさを含めて、むずむずするような肉感とともに演じて見せてきたことである。たとえばロマン派について語る本書の冒頭部。一般に、「要するにピュアな世界を目指そうといのがロマン派だった」という誤解があることをとらえて氏は言う。

 虚心坦懐にロマン派に立ち向かうと、どうも戸惑ってしまう。ロマン派の半分は、淡々と山野を歩いての報告なのだ。日本のロマン派研究はこれをまったく無視してきたといっていい。

 自分の家からどこかの山まで、ただひたすら散策する。何キロか延々と歩く途中で、ツタの葉が生えているのを見て、きのう八枚しかなかった葉っぱが、きょうは九枚になっている。君も成長したのだな。そうだ、僕も成長しなければといった調子で延々と続く。これは一体何なのだろう。

こういう語りっぷり、いいなあ、と思う。大事なのは、この「一体何なのだろう」というところである。あるいはその前の「どうも戸惑ってしまう」というところ。

「知」の出発点とは、こういう風に戸惑ったり、疑ったりするところにあるのではないか。私たちはそこで「非知」のようなものとぶつかって面食らい、がっかりする。そして多くの場合、そこで至極ふつうに退屈し、あるいは「?」と目を見合わせて終わる。しかも、退屈しているにもかかわらず学習だけはし、記憶する。そして平然と退屈さを再生産する。これに対し、高山宏は驚くほどの度量の広さで、こうした「がっかり」を受け止め、いとも簡単にギャップを飛び越える。

こうした叙景、風景描写のジャンルを「エクスカーション」という。今では遠足、遠出の意味だが、議論が脇道へそれること、すなわち脱線する書き方も指した。「プロスペクティブ・ポエトリー」といった気の利いた言い方もある。「眺望詩」とでも訳すか。それが、ある時代の恋愛文学、ある時代の思想的な文学と同じくらい、十八世紀後半には大流行していたのだった。

高山的「知」の快楽は、こうした飛躍にこそある。氏の再三強調する「関係づけ」であり「全体化」なのだ。はっと視界が開ける喜び。

 本書のタイトルに嘘はない。まさに「近代」という時代をわかるための本である。17世紀から18世紀、さらには19世紀となめらかに時間軸を移動しながら、高山宏は「アンビギュイティ」の訳語を再考し、「絵と文字」の関係を疑い、「ファクト」や「リアル」といった概念の起源を問題にするかと思うと、「蛇行と直線」の歴史を辿り、プライバシーの誕生と書簡体小説なんていう話題にも飛び移る。17世紀の暗号流行りとか、アイルランド人の自転車好きとか、王立協会が「言葉」と「もの」の関係にどのような影響を与えたかなど、きらびやかな「ネタ」が満載である。

 高山宏の語りからはつねに、「もっとおもしろがれるはずだ」という、ほとんど理由なき「知的前向きさ」が感じられる。「もっとおしろがれるはずだ」とは、別の言い方をすれば、「もっとわかるはずだ」とか「もっと見えるはずだ」という精神である。つまりそれは、この本の中心テーマとなっている近代の「目」の問題と重なるのだ。

 今まで見えないものをあきらめていた教養があったのであり、そこから先は神の領域、人間が手を出してはいけない領域だった。技術論的にいえば、不可視の領域である。見えないものは理解しない。「好奇心」というものと直結した目が現象の表層をやぶって、どんどん世界を可視のものに変えていく。「啓蒙」とは文字通り「蒙(くら)」きを「啓(ひら)」く光学の謂なのだ。「真理の面帕(ヴェール)」をはぐのである。

(中略)

「I see that.(わかった)」とは、まさに言い得て妙の英語である。「私が見る」ということと同時に「私はわかる」を意味するのである。「見ない限りは理解しない」のである。

 

「見ない限りは理解しない」というところに注目したい。高山宏という人、あまりにひょいひょいとジャンプするので、ついこちらはそのジャンプばかりに目をとられがちだが、彼にかくも鮮やかなジャンプをゆるすのは、「いざとなったら、理解しないぞ」とでもいう覚悟であるような気がする。土台にあるのは、じつに疑り深く、退屈さに敏感で、白々と明晰で、身も蓋もないことを平気でいうようなイギリス的知性でもある。

 そこが高山宏の「英文学的」たる所以である。本書でもやや批判的に触れられているように、日本の英学・英文学には、何とも「じじむさい」ところがあった。たぶん今でもそうだ。その英文学的加齢臭は、しかし、「わからんものはわからん」と言えてしまうような、変にカッコつけてわかったふりをしなくても許されるような文化を養ってもきた。本書の最後で氏は英文学と「ばいばい」しているが、氏の芯の部分にはずっと英文学の「目」があるのではないかと筆者は勝手に理解している。

 それでは、どこが「超」なのか。

 多くの英文学的人間は、あまりにこうしたイギリス的白けムードのようなものと相性がいい。だから何の感動も、ジャンプもなしに、淡々と「知」のぬかるみに足をとられることを何とも思わない。イギリス人にしてからがそうだ。「どうせ、こんなものさ」と思う。「世の中、そうびっくりすることなんかないさ」とか「わかりゃしない」と諦めている。そこが、ある意味ではイギリス的知性のすごみでもあるのだが、イギリスで鬱病が多いというのもまた事実。

 高山宏の不思議なのは、彼もまた間違いなくこのイギリス的白けムードを身につけているくせに、それでもなお、興奮し、ジャンプし、おもしろがる能力を備えているところである。これはふつうの人ではなかなか実践できないことだ。才能だけでなく、ホルモンとか、血圧とかが関係しているに違いない。氏の語りには何ともいえない色気があり、温度があるが、これはほとんど生理の次元のことなのだ。

 いつもの書評と比べると本書では「ぼく」があまり登場しない。やはり「近代文化史」ともなると忙しくて、それどころじゃないのかなと思っていたら、後半にやっと出てきた。「ぼくの世代には、一日デパートで過ごすというライフスタイルがあった」とのこと。226頁から始まるこの「デパートの話」というセクション、デパートと高山宏の関係から説き起こして、例によってひょいとジャンプする。紀伊國屋書評の高山的「ぼく」に惚れてしまった人には堪えられないところだ。

 筆者の恩師のひとりの出淵博先生はかつて「高山宏は目利きだからね」と悔しそうにおっしゃったものである。悔しそうだったのは、たぶん出淵先生ご自身が目利きを自任しておられ、それでも「高山宏」にはかなわないと思っていたせいか。筆者は出淵先生の格言はすべて信用することにしてきたので、今でも「目利き」という言葉を聞くと高山宏の名を連想するほどである。

 実は筆者はいまだ、ご本人に挨拶申し上げたことがない。本郷キャンパスで授業を持っておられることもあり、文学部の建物のエレベータなどで、誰がどう見ても「高山宏!」としか見えない方と出くわすことがあるのだが、このエレベータ、実にノロマというか、よくいえば牧歌的な代物で、ぬぬぬぬ~とか言いながらいつまでたってもやってこない。乗っても動き出さない。しかもそこで、ヌマノビッチこと沼野充義氏が「ねえ、金澤先生。僕はいつも、あの鈴木っていう学生を見ると佐藤って言っちゃうんですよ。あのふたり似てるでしょ? ね? ね? ところが本人たちにそれを言うと、全然似てないって怒るんですよ。似てますよねえ?どう見たって似てる。それに一度似てると思ったが最後、意識しちゃうから、よけいこんがらかるんです」なんていう会話を交わされていたりして、「何かこれ高山的関係づけ?」などと思ってるうちに、思わず挨拶のタイミングを逃すのである。

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