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『グッドバイ』太宰治(新潮社)

グッドバイ

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「ウソのつき方、つかせ方」

 続けて読むと食傷気味になるけど、しばらく読まないでいると、ちょっと恋しくなる。太宰治はそんな作家かなあと思う。決してこってりした文章ではなくて、むしろ淡泊の部類に入るのかもしれないけど、何かくせがある。単色でドライなわりに、いやらしくからみつく。

 『グッド・バイ』は最後の短編集である。未完に終わった「グッド・バイ」をはじめ晩年の作品を集めており、小説としては、正直言って、かなりテキトーだなと思うものも少なくはない。評者の勝手なランキングで言うと、

◎「男女同権」、「朝」、「饗応夫人」、「眉山」、「グッド・バイ」

○「薄命」、「十五年」

△「たずねびと」、「女類」

あとは×かな、という感じである。

 しかし、あらためて思うのは、太宰という作家、とにかく始め方が抜群にうまい。たとえば「朝」という作品。主人公は小説家である。うちにいると友だちが遊びに来てしまい仕事にならないから、隠れ家のつもりで部屋を借りるという設定である。銀行に勤めているある女性の部屋を、彼女が不在の昼だけ「私」が借りて執筆に使うのである。太宰はそれをこんな風に語ってみせる。

 毎朝、九時頃、私は家の者に弁当を作らせ、それを持ってその仕事部屋に出勤する。さすがにその秘密の仕事部屋には訪れて来るひとも無いので、私の仕事もたいてい予定どおりに進行する。しかし、午後の三時頃になると、疲れても来るし、ひとが恋しくもなるし、遊びたくなって、頃合いのところで仕事を切り上げ、家へ帰る。帰る途中で、おでんやなどに引かかって、深夜の帰宅になる事もある。

 仕事部屋。

 しかし、その部屋は、女のひとの部屋なのである。その若い女のひとが、朝早く日本橋の或る銀行に出勤する。そのあとに私が行って、そうして四、五時間そこで仕事をして、女のひとが銀行から帰って来る前に退出する。

「しかし、その部屋は、女のひとの部屋なのである」という一節の持ち出し方が、じつにいやらしい。こちらが「ずぶっ」と小説の中に入っていく、そういう言わば「魔の一瞬」みたいな箇所なのだが、何よりいやらしいのは、この一文が何も決済していないというか、「だから何だ!?」と言いたくなるほど、一見たくさん言っている素振りをみせながら、実は何も言ってないというあたりである。

 くせ者は「である」という語尾だろう。ひとくちに「である調」などと言うけれど、「である」の効果というのは実に千差万別。太宰の場合は、「である!」と言いながら、実は何も「である」しないで見せる。別の言い方をすると、太宰の手口というのは、やわらかくてスムースな文章の中に、時折こういう「である」みたなかすかな強面(こわもて)というか渋面というか、こちらにちょっと身構えさせるようなひとときをつくっておいて、そこに生じたこちらの心の隙みたいなものを突っつくようにして話を進めるというところがある。

「朝」という作品はたぶん、一番の緊張ポイントがこの「である」で、あとはいつもながらの芸の領域である。さあ、部屋の持ち主の女性と、いったいどうなるのでしょう?といやでもこちらは思う。もちろん女性のしゃべらせ方は――いつもながら――にくらしいほどうまい。

私は上半身を起して、

「窓から小便してもいいかね。」

と言った。

「かまいませんわ。そのほうが簡単でいいわ。」

「キクちゃんも、時々やるんじゃねえか。」

必ずしも太宰の書く女性が真に迫っているとか、なまなましいとかそういうことではないのだと思う。むしろ太宰の女たちはたいへん人工的である。うそっぽいとさえ言ってもいい。しかし、太宰カメラの中で、かすかにわざとらしい台詞を吐く女の、そのほんの少し奇をてらって、ほんの少し危険で、ほんの少しあざといさじ加減が、太宰の小説世界の、ほんの少しわざとらしい感じ、だからこそ舌に残る感じと重なるのではないかと思う。

 太宰の主人公たちの多くは、女に嫌なことを言われることでアイデンティティを確立する。「実に、私は今まで女性というもののために、ひどいめにばかり逢って来たのでございます」という「男女同権」中の語り手の台詞は、太宰の読者にとってはおなじみの自意識を示すだろう。じゃ、いったいどんな酷い目にあって来たんですか?と期待を高めておいて、その期待に応えるだけの「酷い目」を書くわけだから、そこはたいしたものである。たとえば「男女同権」には、主人公が吉原で遊んだときの次のような場面が描かれている。

 連れの職工は、おい旦那、と私を呼び、奥さんの手料理をそれではごちそうになるとしよう、お前、案外もてやがるんだなあ、いろおとこめ、と言います。そう言われて私もまんざらでなく、うふふと笑ってやにさがり、いもの天ぷらを頬張ったら、私の女が、お前、百姓の子だねと冷く言います。ぎょっとして、あわてて精進揚げを呑みくだし、うむ、と首肯(うなず)くと、その女は、連れの職工のおいらんのほうを向いて小声で、育ちの悪い男は、ものを食べさせてみるとよくわかるんだよ、ちょっちょっと舌打ちしながら食べるんだよ、と全くなんの表情も無く、お天気の事でも言っているみたいに澄まして言うのでございます。

「グッド・バイ」に出てくるキヌ子も、登場したばかりのときはわざとらしさがやや鼻につくが、だんだん調子が出てくる。たぶんそれも仕掛けのうち。ふだん汚らしい闇屋だと思っていたキヌ子が、思いがけない美人で、その美人とつるんで愛人との関係を清算していこうとする、という話である。何しろ太宰だから、素材としてはたいへんリアリティがあるのに、むしろ人工的に仕立ててあるところがいい。

 田島は眼をみはる。

 清潔、整然、金色の光を放ち、ふくいくたる香気が発するくらい。タンス、鏡台、トランク、下駄箱の上には、可憐に小さい靴が三足、つまりその押し入れこそ、鴉声のシンデレラ姫の、秘密の楽屋であったわけである。

 すぐにまた、ぴしゃりと押し入れをしめて、キヌ子は、田島から少し離れて居汚く坐り、

「おしゃれなんか、一週間にいちどくらいでたくさん。べつに男に好かれようとも思わないし、ふだん着は、これくらいで、ちょうどいいのよ。」

「一週間にいちどくらいでたくさん」なんて誰でも言いそうな台詞だが、こんな風に言われたら、やはり忘れない。

 で、愛人たちと別れるために雇ったキヌ子なのに、案の定、田島はそのキヌ子にちょっかいを出しそうになる。

「もし、もし。田島ですがね、こないだは、酔っぱらいすぎて、あはははは。」

「女がひとりでいるとね、いろんな事があるわ。気にしてやしません。」

「いや、僕もあれからいろいろ深く考えましたがね、結局、ですね、僕が女たちと別れて、小さい家を買って、田舎から妻子を呼び寄せ、幸福な家庭をつくる、という事ですね、これは道徳上、悪いことでしょうか。」

「あなたの言う事、何だか、わけがわからないけど、男のひとは誰でも、お金が、うんとたまると、そんなケチくさい事を考えるようになるらしいわ。」

 「女」を出せば小説になると思うなよ、と言いたくなる人もいるだろう(アンチ太宰は読書界の一大勢力)。晩年の作品にはたしかにそういうところがある。全体に球威が衰えているのは隠せず、とにかく決め球の連投で勝負するしかなくなったということだろうか。それでも三振はとれる、と筆者は思う。

 ところで新潮文庫版には太宰研究の大家・奥野健男氏による解説がついている。必ずしも百パーセント間違ったことを言っているわけでもないのかもしれないが、これほど作品の雰囲気を伝えない解説というのも珍しいので、是非、一読をお薦めする。参考までに以下、一部を引用。

そしてもっとも重要なことは、悪しき、古きものへのたたかいを、先ず自分の中にあるそれらの摘発から、自己を徹底的に否定し、破壊することからはじめたことだ。外の敵を撃つためには、まず内の敵を撃たねばならぬ。自己の中にある古さ、ケチくささ、偽善を、サロンを憧れる心を、さらには炉辺の幸福、家庭の幸福を願う心の中に潜むエゴイズムや悪を、それら一切の上昇感性を、文学においても実生活においても否定し破壊しようとする。それを実行してのみ、はじめて外部の敵と、悪しき社会や権威や既成道徳とたたかうことができる、他人の悪を撃つことが可能になるのだという徹底した認識があった。この自らに課した至難の苛烈な道が、ぼくたちの魂をはげしく撃った。(中略)太宰治の自殺は、このすさまじい自己否定、自己破壊の下降指向の極限における倫理的内的必然ととらえることもできる。

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