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『作家の値段』出久根達郎(講談社文庫)

作家の値段

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「メディア論的な日本近代文学論。嘘じゃないって。」

 本書は、題名で損をしていると思う。福田和也『作家の値打ち』(飛鳥新社)とかけているつもりなのかもしれないが、『作家の値段』という題名で、帯には「『竜馬がゆく』極美50万/三島の“帯”がン百万」とあれば、誰だって古本の値段をめぐって下世話な話が繰り広げられる軽い内容の本だと思ってしまうだろう。

 事実、本書は長年古本屋を営んでいた筆者が、自らが日本の作家たちの古本を扱ったときのエピソードを織り交ぜながら、司馬遼太郎三島由紀夫山本周五郎川端康成太宰治寺山修司宮澤賢治永井荷風江戸川乱歩樋口一葉夏目漱石ら24名の作家の初版本がいくらで取引されているかを、古本屋「龍生書林」の大場啓志に教えてもらうという体裁で紹介している。例えば、太宰治の第一創作集『晩年』の初版本(昭和11年)は二百部程度しか売れなかったので、現在、普通の状態でも四、五十万円くらいの値段がつき、帯付きアンカット極美本なら三百万円、翌年出された同書の再販本、三版本の場合、箱付美本で十五万円前後だそうだ。だから確かに本書の題名に偽りはない。本書は、有名作家の本が古本業界でいくらで取引されているかという情報を詳細に教えてくれる本なのだ。

 しかし本書の魅力はそんなところにはない。別に古本の値段などに大して興味のない私のような人間にとっても、充分にわくわくするような面白さに満ちた本だった。こんな題名を付けなければよかったのに、と残念でならない。では、どのように面白いのか。

 最初、私は本書を近所の本屋の文庫本新刊コーナーで何気なく手に取った。目次を開くと「寺山修司」の章があるので(私はいま山田太一についての論考を書いているのでその親友の彼の話も気になるのだ)、読み始めてあまりの面白さにぐいぐいと引き込まれた。その章は、出久根達郎が高円寺で古本を営んでいた1983年5月4日のエピソードで始まる。出久根は古本を処分したいという近所の客の家に出向いてダンボール二箱分の古本を買い取った。商談がまとまって、ふと部屋の隅を見ると古い雑誌の束が置いてある。大学時代に義理で買わされた同人誌で客は何の価値もないという。

 しかし出久根が念のため見ると、その中に寺山修司山田太一の名前の入った、同人誌『風』(早稲田大学教育学部国語国文学科発行)の1号から4号までの4冊を発見する。寺山の「若い手帖」という詩や「山田太一君へ」という短文が掲載されている。出久根は興奮して、ダンボール二箱分の古本以上のお金を出して買い取って、自転車で帰る途中、阿佐ヶ谷北の河北総合病院の前に差し掛かると大勢の人だかりでテレビカメラも出ている。テレビドラマの撮影かと思って周囲の人に事情を聞けば、その病院で寺山修司がさっき亡くなったのだという。

 何たるドラマチックな偶然。しかしそれだけなら出久根は偶然の恩恵に預かっただけかもしれない。しかし本書はそれだけでは終らない。そこから出久根の体験的寺山修司論が始まって、これがまた面白いのだ。同じ高円寺の周辺でそれより8年ほど前、頭のてっぺんから足の先まで白い包帯を巻いた人間が、街のあちこちの家をノックして住人を仰天させて警察が呼び出され、警察官がそのミイラ男に尋問するという滑稽な光景が町中で展開された。出久根は直接見たわけではないが、店の常連が驚いて教えに来てくれたのだという。翌朝、新聞記事でようやくそれが寺山修司の『ノック』という街頭劇が巻き起こした騒動だったことを彼は知る。次に何が起きるか分からない偶然性の芝居を、千人以上の客が高円寺や阿佐ヶ谷の各所33ヶ所で楽しむという趣向だったが、住人は何も知らないのだから騒ぎになるのも当然だ。いや寺山はそれを最初から狙っていたといってよいだろう。そのように70年代の寺山は演劇によって日常世界を揺さぶろうとしていたのだ。

 このエピソードは、寺山修司という作家がある時代に社会的にどういう活動をしていて、なぜある種のスター性を持っていたのかを、その時代の空気ごとズバリと描き出していて、実に見事だと思う。偉そうな理屈をこねて寺山修司のマザコン性がどうだとか、東北がどうだとか、盗作がどうだとかを論じる頭でっかちな作家論ばかりを読んでうんざりしていたところだったので、よりいっそう感心してしまった。つまり古本屋の視線で「作家の値段」を論じることは、書物を作家の精神的宇宙に閉じ込めて考えるのではなく、作家が本を出版して多くの人に読まれ、愛され、スター化していく社会的・歴史的過程を生き生きと明らかにしてくれることになるのだ。その意味で本書は、メディア論的・社会学的な視点を備えた(本人には自覚はないが)、きわめて稀有な近代日本文学論だと言えよう。

 樋口一葉自身の当事の貧しい暮らしを具体的に描きながら、それと重ねて紹介される彼女の「大つごもり」の素晴らしさや、明治42年ふらんす物語』、大正2年「恋衣花笠森」、大正4年『夏すがた』、そしてあの『四畳半襖の下張』と、発禁処分を次々と食らってきた永井荷風の発禁本の歴史とその内容紹介の見事な簡潔さ(最近は街歩きおじさんとしてノスタルジックにばかり紹介されることへの批判になっている)、「少年探偵団」ファンの世代別の読み方の差異を、戦前派、ポプラ社版派(昭和22年から35年)、光文社版派(昭和39年)、テレビドラマ派(昭和50年)と4期に分けて見せる江戸川乱歩論など、どれもこれもいちいち感心のあまり唸るような作家論ばかりである。玄人筋でなければ気づかないような作家への切り口や視点が、素人が興味を持てるような講談調の話として巧みに描かれているのだ。日本近代文学全集とか日本近代文学論の堅苦しい退屈さに、それを読むことを避けてしまった人々(私のことです)にとって、本書は最良の入門書だと思う。嘘ではない。騙されたと思って読んでほしい。


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