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『回想の太宰治』津島美知子(講談社)

回想の太宰治

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「太宰はエアロビクスをするか?」

 太宰夫人はいたってふつうの人だった。『漱石の思い出』の夏目鏡子が、夫を凌ぐかというほどの強烈な個性の持ち主なのに対し、津島美知子は常識と良識の人だった。

 太宰のような作家を語るには、この〝ふつうさ〟がうまく作用する。何しろ、口から先に生まれてきたみたいにぺらぺらと文章をはき出す男である。悲しいとか自意識とか言っているが、この人、ほんとに悩むヒマあったのかね、と思いたくなるほど、生きることと書くことに忙しかった。

 美知子はぜんぜん違う。文章もぺらぺら出てくるわけではなく、むしろ寡黙で木訥。しかし、いかにも口数の少ない人らしく、しゃべるときにはけっこう痛いことを言う。そんな美知子が一枚一枚皮を剥ぐようにして、太宰を裸にしていくのである。美知子の〝ふつうさ〟の領域に、「ふつうなんか嫌だ!」と叫び続けた太宰が少しずつ引きづりおろされてくる。

 たとえば、太宰が「善蔵を思う」や「市井喧争」の題材にした苗の押し売りの訪問事件について、美知子は次のように述懐する。

来客との話は文学か、美術の世界に限られていて、隣人と天気の挨拶を交すことも不得手なのである。ましてこのような行商人との応酬など一番苦手で、出会いのはじめから平静を失っている。このとき不意討ちだったのもまずかった。気の弱い人の常で、人に先手をとられることをきらう。それでいつも人に先廻りばかりし取越苦労するという損な性分である。

ああ、太宰ってそうだよね、と思った時点で、すでに私たちは美知子の術中にはまっている。隣人と天気の挨拶を交すことも不得手」などと言われると、まるで「天気の挨拶」をしなくてはいけないのではないかという気になってくる。夫人は太宰にいったい何をさせたいのだろう? 八百屋でカレーの材料を買ったり、エアロビクスに通ったりする太宰がこの先に現れてもおかしくない。

 しかし、私たちはすでに美知子の術中にはまっているので、次のような感慨にも思わず頷いてしまう。

私はその後、この一件を書いた小説を読んで、さらに驚いた。あのとき一部始終を私は近くで見聞きしていた。私にとっての事実と太宰の書いた内容とのくい違い、これはどういうことなのだろう。偽(いつわり)かまことかという人だ――と私は思った。

「偽(いつわり)かまことか」なんて言うけど、小説家なんだから、そんなの当たり前でしょ…とそんな反論をする人もいるかもしれないが、筆者はそうは思わない。太宰がそういうことで嘘をつくのを、ぜんぜんあたり前ではない、すごく生々しい「偽り」と感じてしまうような境地がありうるのだ。美知子はそういう境地に読者を引きこんでいく。

 蓼科まで旅行したときのこと。太宰は「蛇がこわい」といって宿にこもり、酒ばかり飲んでいる。美知子は思う。

これでは蓼科に来た甲斐がない。この人にとって「自然」あるいは「風景」は、何なのだろう。おのれの心象風景の中にのみ生きているのだろうか――私は盲目の人と連れ立って旅しているような寂しさを感じた。

太宰ファンなら「まさにこれがいいんじゃないか。はるばる蓼科まで行って、観光しないで酒浸りなのがカッコいいんじゃんか」と言うかもしれない。たしかにそれが〝通〟かもしれない。たしかにそれが「文学」なのかもしれない。それに比して、美知子はあまりにふつうだ。

 でもこのふつうさや、愚痴っぽさや、言葉になりきらない苛々が、〝ほんものの太宰〟を取り逃がしているなどとは思わない。美知子は揺るがぬ人だ。その揺るがぬ地点から、頑固なほど常識的な視線を送っている。

作家にとって家は住居であるとともに仕事場でもある。仕事だけに専念して世俗的な用向きは一さい関わりたくないという、それは理想であるが、「家」のことともなれば、一家の主人としてもっと、関心をもち積極的に動いて欲しいと思ったのだが、彼の方は私や私の実家の力の無さに不満を持っていたのかもしれない。

ああ、なんて当たり前のことを言う人なのだ。あの太宰に「一家の主人としてもっと、関心をもち積極的に動いて欲しい」なんて、よく言うよと思う。しかし、こうした言葉、まるで生きてそこにいる太宰に語りかけているかのようだ。迫真性がある。そして、そんなふうに感じるのも、そういう思いを浴びてしまう太宰がいるからなのだ。つまり、太宰も案外、こういう常識の中に引きこまれるタイプなのだ。いや、下手をすると常識を誘発さえした。

 本書の中でもとくに太宰が裸にされたという印象を受けるのは、税額の多寡に一喜一憂する太宰を克明に描いた「税金」という章と、時計や靴など太宰の残したものを元に思い出を想起する「遺品」という章である。腕時計がひとつあるばかりで時間どころか曜日の観念すらなかった三鷹の家では、美知子は休みと知らずに郵便局に出かけたこともあったが、あるとき、時計をなくしたと太宰に報告して、ひどくしかられたことがあった。なぜそんなにきつく叱られたかは謎だが、美知子はそのときのことを思い出すにつけ、愚痴りたくなる。

あの人は私が外出して、留守番役になることを好まない。遠くへ行って長く私が留守すると、きまって不機嫌である。そしてまた彼はいつも自分が被害者であらねばならない。

その通り。世の亭主は留守番が嫌いです。そして文句を言われる側であるよりも、文句を言う側にいようとする。ちゃっかりしたものだ。「まったくもお」という声が聞こえてくるようである。寡黙な美知子の不満はさぞ蓄積しただろう。だが、不満が蓄積するからには、そういう場があったのだ。留守番するしないでいちいち神経を張りつめあうような、すごく泥臭い日常があった。小説書くばっかりで、うちの人は趣味もない、なんてつぶやく美知子の強烈な生活の臭いは、抽象的な太宰の生活に、否応のない具体性を与える。

 男か女かという話は、抽象的に語るとまるでおもしろくない。ましてや太宰の場合はそうだ。でも、さすが美知子夫人、鋭い目が冴えている。これも「遺品」からの一節なのだが、靴と足の話が出てくる。長身の太宰は足も大きかった。しかも甲高で脂足。結婚式で仲人をするのに、足袋を履き替えようとしてもなかなかうまく履けない。そんな話のあと、ふと美知子は思い出す。

ほんとに大きな足で、その素足を見ると私は男性だなあと感じた。女性的なといえる面を多く持っている人だったから。

足を見て、あ、一応男なんだ、というのだ。なかなかすごい。もちろん、本人にはこんなことは言わなかっただろうが、たとえ言わなくても何かは感じはする。太宰だって鈍感な人ではない。

 こうしてみると太宰というのは、回想されやすい人なのだ。生まれつき丸裸に出来ている。ガードが甘い。だいたい、こんな慧眼の人を奥さんにもらってしまうところからして、プライバシーに対する意識が低いとしか言いようがない。しかし、あのぺらぺらと言葉の流れ出してくる作品を読むにつけ、個人的な事件にせよ、伝聞のネタにせよ、あるいは古典の流用にせよ、題材を右から左へと流していくことについての天才的なまでの鷹揚さのようなものが、まさに太宰の本質なのかなとも思う。そういう意味では隙だらけであることでこそ、作家たりえた人なのだ。それが美知子夫人の寡黙なる苛々を一層助長する。うまい釣り合いとも見えるし、だからこそ、お互いなかなかたいへんだったろうなとも思う。

 この本は決して太宰神話を切り崩すものではない。夫の死後、積極的にその全集の編集や解説執筆などにかかわってきた美知子はむしろ〝神話〟を築いた側にいる。本書の元になった単行本が最初に世に出たのは1978年、すでに30年だ。この30年の間にも〝神話〟は縮むどころか、膨張したのではないか。しかし、やはりこの回想は強烈な口直しなのだ。永遠の口直しである。太宰はそういう口直しとならべて嘆賞するのがいい。美知子だって愚痴ってばかりではない。泥酔した太宰の寝顔を見ながら、「このような、神経がすっかり麻痺した状態になりたいために飲む酒なのか」とつくづく感慨にふけったりする。やはり、この人は太宰にとって大事な〝覚醒部分〟を担っていたのではないか。寝顔同様、太宰の文章はどこか隙がある。それが魅力。いつも、「ねえ、僕についてなんか言ってみてよ」と訴えている。誰かと一緒にいないと気が済まない作家だったのだ。

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