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『安部公房伝』安部ねり(新潮社)

安部公房伝

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「通路の堀り方」

 母方からの遺伝だと思うが、筆者は小さい頃から算数が苦手であった。現在、ある学会の事務局で働いており、この時期になると予算だの決算だので「租税公課支出」とか「他会計振替収入」とか「前期繰越収支差額」といった神秘的な言葉のならんだ表にどんどん数字を入れていかなくてはならないのだが――大きい声では言えないが――ゼロの数をひとつふたつ間違えるということがよくある。エクセルの欄に変な数字を入れてしまい、ファイルの方が「ぎゃっ!」というような表示を出すこともある。

 そんなわけなので、かつて安部公房の小説をはじめて読んだときには、何となくその「数学のにおい」に違和感をおぼえて今ひとつ熱中できなかったおぼえがある。筆者くらいの世代だと、若い頃はまだまだこの作家の名前は有効で、大学の同級生でも「好きな作家は?」と聞かれて(そもそもこの質問自体、今では無効だろうが)、「夏目漱石」や「村上春樹」にまじって「安部公房」をあげる人がいたものである。数学の「す」の字も感じさせない作家が多い中にあって、公房の雰囲気は明らかに異質で、それだけにいったん好きになった人は、中毒のようになって読んでいた。

 本書『安部公房伝』によれば、若き安部公房は旧制成城中学時代からほんとに数学の達人として知られていたようである。本人も「小説家にならなければ数学者になっていた」(42)と言っていたとのこと。まるで若島正のようだ。

 

 とはいえ安部公房の独特さは「数学のにおい」で説明すればいいというものでもない。たしかに彼は数学が得意だったようだが、彼のほんとうの特質は別のところにある。本書を読んでいてもっとも印象的だったのは、公房が23歳のときに出したはじめての「作品」をめぐるエピソードだ。公房の最初の「作品」は、『無名詩集』というタイトルの詩集だった。書きためた詩に、新婚の妻に向けた「リンゴの実」という作品を合わせたものである。公房はこの詩集をガリ版で刷ってホチキスでとめ、五十円で売り出した。しかし、さっぱり売れない。出身地の北海道まで行商に行ったが、まるきりだめだった。1947(昭和22)年のことである。

 行商までして詩集を売ってまわろうとする精神そのものに、どこか呆気にとられるような迫力を筆者はおぼえる。だって、詩集なんて(ましてや処女詩集なんて!)穴があったら埋めたいくらい恥ずかしいものではないか? 恐るべき図々しさ。しかし、おもしろいのは公房が、この失敗をたいへん屈辱的なものとして生涯忘れることがなかったということである。そしてこの経験は後々の文業にも生かされた。それを裏づけるコメントを作家の実の娘である著者はよく覚えている。

 『無名詩集』が売れなかったことは、自己の内心を吐露する詩という表現手段を選択したことに対する自己嫌悪のようなものをもたらしたのではないかと私には思われる。文学を他者との通路と考えていた公房はのちに、「通路の掘り進め方にはコツがある。自分の方から掘ってもだめなんだ。相手の方から掘り進めないと」と言っていたが、それは若い頃身につけた商売のコツでもあったろうし、思ったようには売れなかった『無名詩集』を売り歩きながら身にしみたことでもあったのだろう。(82)

「通路の掘り進め方にはコツがある」などという境地にはなかなか達することができるものではない。おそらく公房には作家としての、あるいは人間としての、天性の運動神経の良さのようなものが備わっていたのだろう。もちろんどんな作家でも「自分の方から掘ってもだめなんだ」くらいの境地には到達できる。しかし、日本の文壇が長らく「自分の方から掘る」という不器用さをよしとしてきたのも事実だ。だから、そこに居着いてしまう人も多い。しかし、「掘ってもだめなんだ」と壁にぶつかりながらも、公房のようなたくましさでその壁を超えることのできる人はそういなかった。そこに垣間見えるのは、共産軍と国民軍とが入れ替わり攻めてくる敗戦後の奉天で、砂糖の配合を実験しながらついに絶妙な味のサイダーを売り出し大儲けしたなどという、たくましい青年の姿である。しかも、この成功に気をよくして「固形サイダー」まで売り出しさっぱり売れなかったなどというオチがあるのも、いかにも公房的だ。

安部公房伝』の筆致はけっして熱狂的でも感傷的でもなく、どちらかというと淡泊でさえあるのだが、強い物語性に流されていない分、脇役たちがひょいと顔を出して面白い味を出す余地がけっこうある。公房の父の浅吉はその中でもとりわけおもしろい存在である。浅吉は北海道の開拓地で内科医を開業していたが、薬がなくなると休診にしてリュックを背負い、鉄道に乗って山の方に行って薬草を採ってきたそうである。公房は結局医者の道には進まなかったが、浅吉の残したエピソードは、「そうであったかもしれない公房」の姿を想像させるのに十分だ。その他にも、公房が奉天の小学校で教わった「宮武先生」とか、親友の「金山時夫」など忘れられない脇役は多数。

 人だけではない。物もおもしろい。ワープロやカメラから、シンセサイザー、あやしげな創作物など安部公房の書斎には「男の子」的なおもちゃがたっぷりだったという。この作家は物をこよなく愛したらしい。その発明好きもよく知られていて、簡易式のチェーン「チェニジー」などは発明の賞までもらっている。また発明の一環なのかもしれないが、カーキチでヨーロッパからの輸入車を運転することの多かった公房は、左ハンドルで車の料金所を通過する際、通行券を反対側の助手席から手渡すのが面倒くさくて、車の中にマジックハンドを常備していた。晩年、箱根で一人暮らしをしていた父が死んだ後、車にぽつんと残されたマジックハンドを見て、娘は「用をなしたのか疑問」といぶかる。

 あらためて読み返してみても、安部公房の作品には叩いても焼いても死に絶えそうにないしぶとい文体の力がみなぎっている。その根底にあるのはいたずらに獰猛な生命力などではなく、「自分の方から掘ってもだめなんだ。相手の方から掘り進めないと」という、文学者と科学者と商売人とが同居したようなクールな持続力かと思う。その文体を模倣しようなどとはしない文章で書かれた伝記から、作家の生命の力を思い起こすのはなかなか楽しい。


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