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『通訳ダニエル・シュタイン』リュドミラ・ウリツカヤ(新潮社)

通訳ダニエル・シュタイン(上)

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通訳ダニエル・シュタイン(下)

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「瞠目させられる構成力、驚愕の書」

2009年に読んだ本でもっとも驚いた本といえば、この『通訳ダニエル・シュタイン』である。さまざまなことに驚愕したが、まずは作品の形式だ。

最初の章はエヴァ・マヌキャンという女性の独り語りである。つぎの章では1章に出てきたエステル・ハントマンという女性に語り手がバトンタッチされる。それぞれに日付と場所が書かれていて、エヴァは「1985年12月 ボストン」、エステルは「1986年1月 ボストン」。

ふたりが交互に語っていくのだろうと思って読み進んでいくと、3章ではイサーク・ハントマンという男性に語り手が替わり、時間も過去にさかのぼって「1959年〜83年」になる。名字がエステルと同じなので血縁とわかるが、説明的なことは書かれてない。

4章ではさらに時空が飛ぶ。「1946年1月 ヴロツワフ」となり、 エフライム・ツヴィクという人物がアヴィクドル・シュタインに宛てた書簡がそのまま書き写されている。ここにもふたりの解説は見当たらない。

このように、全編が独白、書簡、日記、インタビュー、覚書、新聞記事などで埋められていく。上下巻にまたがる600ページを超える大作に地の文章がまったくないのだ。完全に「資料」のコラージューで出来上がっている。こんな小説がありうるのだろうか?

つぎに驚かされたのは物語の内容である。核になっているのは、実在の人物をもとに造形されたダニエル・シュタインというユダヤ人のカトリック神父である。ユダヤ人にカトリック信者がいるとしても、神父までいるとは! しかも彼はイスラエルに暮らし、そこで布教活動に励んでいるのだ! 目からウロコが落ちる。

さらに驚くのはこの神父の過去である。彼はポーランドユダヤ人家庭に生れたが、ドイツ語が堪能で風貌もユダヤ人的ではなかったために奇跡的にホロコーストを逃れる。そしてユダヤ人であることを隠したまま、なんとゲシュタポの通訳になるのだ!

とはいえ、ナチの言いなりに働いたわけではない。ゲットー殲滅計画が進行しているのを事前にキャッチし、ドイツ軍に偽の情報を与えてユダヤ人300人をゲットーから逃がすという勇気ある行動をおこなう。その後、彼もゲシュタポの追っ手をのがれて修道院にかくまわれ、九死に一生を得る。自分の人生は一度終わったと感じた彼は、洗礼を受けてカトリックの神父になり、戦後イスラエルに渡って布教に努めるのだ。

ユダヤ人の出自を隠してゲシュタポに入って生き延びる。そういう人生があろうとは思わなかったが、ほかにも彼の生き方にはユダヤ世界対ヨーロッパ世界、あるいはイスラエルバチカンという図式に当てはまらないことだらけだ。読んでいるうちに、教科書的な歴史認識やマスコミが報道するニュースの枠組みなどががらがらと崩れていく。それらはカッコ付きの「歴史」であり、裏側にはもっと多様な組み合わせによる色とりどりの人生があるのだ。

説明を聞くだけでは読む気が失せるかもしれない。コラージュ形式がひどく複雑で読みにくそうだ。そんなものが上下巻にもつづいては退屈でゴメンだと言われても仕方がないが、実際に読んだ印象はまったく逆である。少しも飽きないのである。他者の人生に引き込まれ、感じ入りつつページをめくっていく。

コラージュは映像作品によく使われる。映像では顔が出るのでカットアップ手法が生きるし理解もしやすいが、この作品には言葉しかでてこない。にもかかわらず読み進む妨げにならないどころか、わくわくしてくるのだから不思議だ。ほとんど神がかり的な構成力である。

最初に登場するエヴァ・マヌキャンは、ゲットーを脱出して森に逃げ隠れた女性が産み落とした娘で、つぎのエステルもそのときの逃亡者のひとり。3番目のイサークはそのエステルの夫で、女性のお産に立ち会った医師である。こうしたおおまかな筋立てが、最初の40ページくらいで見えてくる。

知るべきことが明かされていく速度と量が、これ以上望めないほど絶妙だ。考えてみれば、わたしたちの人生においてもそうではないだろうか。新しく知りあった人の人生を一息に聞くなどということはありえない。ともに過ごす時間が増えるにつれて霧が晴れるように歩いてきた道のりが顕になる。もっと早くに知っているはずのことが、ずっとあとになってわかり、あら、言ってなかったけ、となることもよくある。

過ぎ去った過去は、現在と絡まり合いながら、ジグザグ道のように、あるいは点在する島のようにぽつりぽつりと示されていくものなのだ。夫婦関係を考えてもそうだろう。結婚したとたんに相手の親類のだれそれが目の前に現れるのだから最初は面くらう。だが何度か会って話すうちに人となりがわかり、親しみがわいてくる。この作品もおなじだ。時間を前後しながら人生そのもののような有機的なペースと結合によって、神父の人生と、それに関わる人間たちの物語がほどけていくところに生の歓びがある。

昨秋、著者のリュドミラ・ウリツカヤさんが来日し、そのとき雑誌のインタビューでお会いすることができたが(『フィガロ・ジャポン』09.12.20)、語られた言葉にまたしても驚きっぱなしだった。

まず最初にモデルになった神父との出会いがあったという。ウリツカヤさん自身、宗教や信仰について悩んでいた時期だったので、彼の人柄と生き方に大きな啓示を受けた。その後、彼の評伝がアメリカで出版され、ロシア語に翻訳することを考えたが、神父の魅力が充分に伝わってこないのを感じ、序文のようなものを付けたいと著者に問い合わせたところ、それなら自分が書けばいいじゃないかと立腹された。じゃあ、そうしようと思い立った。

神父はすでに亡くなっていたので関係者を取材し、膨大な資料を読み込んだ。だが書きはじめてみると、ノンフィクションの形式ではどうしても彼の奇跡的な人物像が浮き彫りにならなかった。そこで登場人物を創作し虚構を加えながら、コラージュによってそれらを組み立てていくことを思いついたという。

果敢な挑戦だった。貼り合せがうまくいかなければ混乱の極みになる。だれも歩いたことのない五里霧中の道を進むのに費やされた時間とエネルギーには想像を絶するものがある。最初に書かれた『ソーネチカ』は読書好きの女性が主人公の愛らしい小説だったが、それから十年たらずで、こんなにも大きな構想力の作品を書き上げたことに心から感動した。

ウリツカヤさんは遺伝学者から小説家に転じた珍しい経歴の持ち主である。最初の作品が出たのも40代後半で、書きはじめるまでが長かった。この作品にはその無言の期間の豊かさが強く刻印されている。宗教の対立、民族問題、現代社会の生きにくさなど、彼女自身が問うてきた事柄を、個々の人生に絡めつつ明らかにしてゆく。その過程でフィクションとノンフィクションの壁は必然的に飛び越えられたのだった。


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