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『文部科学省 ― 「三流官庁」の知られざる素顔』寺脇研(中央公論新社)

文部科学省 ― 「三流官庁」の知られざる素顔

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文科省の「うるさい伝説」」


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 著者はかつて「ミスター文科省」と呼ばれた有名人。そこへ来て副題が「三流官庁」なので、新書特有のうすらいかがわしさを嗅ぎ取る人もいるかもしれない。しかし、本書の内容は至極真っ当で、良質の情報が詰まっている。その文章を読めば、寺脇氏がなぜ「ミスター文科省」とあだ名されるようになったかもよくわかるだろう。この人は物語を組み立て、展開させるのが実にうまいのだ。白黒ははっきりし、メリハリも効いている。何しろこれは官庁の職務を説明する本なのであり、目がごちゃごちゃするような行政用語も頻出するのだが、ほとんどスポ根ドラマを見たような爽快な気分になるのだから不思議だ。

 どのあたりが「スポ根」なのかは追ってお示しするとして、まず筆者がこの本を手に取った事情に触れておきたい。大学に限らず教育機関等で働いたことのある人なら、必ず一度や二度は「文科省がうるさいから」ということばを耳にしたことがあるだろう。そう。文科省とは「うるさい」ものなのだ。でも、考えてみるとよくわからない。だいたい「文科省」って誰なのだろう。文部科学大臣? 幹部? 職員? 建物? 法律? それともベールに包まれた別の何か?

 筆者は、ある学会の事務局で働いていたときにこの「うるさい」問題に直面したことがある。当時は公益法人などの形をとる学会は、文科省(文部省)が管轄していたのである。管轄?と不審がる人もいるだろうが、実際、文科省から人がやってきて、財務状況から役員の選び方、事業の方法にまで細かい指摘をし、改善を指示するのである。こっちが研究のためにやってる学会で、営利目的でもないのに、専門家でもない役人がどうして口を出すの?と言いたくなるかもしれない。しかし、そういうことになっていたのだ。まさに「うるさい」存在である。

 惜しいことに何年かに一度というその「文科省のご来訪」の当日、筆者は別の用事で居合わせなかったのだが、対応した事務局の人が口を揃えて言うには、担当のキャリア官僚は「すっごい優秀だった」とのこと。こちらがだらだら要領を得ない説明をしても文句も言わずにじっと耳を傾け、鋭く問題点のみを見抜いて穏やかに、しかし、厳しく指摘する。財務上の知識もピカイチで、「おっしゃる通りでございます」を繰り返すしかなかったとか。何より感動的だったのは、5時間以上も面談したのに「一度もトイレに行かなかった!」ことだそうだ。

 そんなこともあり、文科省の「うるさい」問題にはかねがね筆者は興味を持ってきたのである。この本はそうした疑問の全部とまではいかなくとも、多くの部分に答えてくれる。まず「キャリア」と呼ばれる幹部候補生たちが、いったいどのような人生を歩むのか、どのようなヴィジョンや葛藤や希望や失望とともに仕事を進めているかが、寺脇氏自身の就活体験の披瀝からはじまって、若い頃の出向体験、大臣との付き合い、他省庁とのつばぜり合いなどを通して説明される。

 筆者にとって興味深かったのは、少なくとも寺脇氏の価値観の中心に「一流の官僚たるもの政策を提案し、それに応じた予算を獲得せねばならない」という考えが強固にあるということである。つまり、「事業メンテナンス官庁」ではいけない、知恵を絞って何か新しいことをやれ、というのである。おそらくこれは、相当数のキャリア官僚に共有された考え方なのだろう。

 しかし、まさにこのような政策重視のモデルが、(旧)国立大学をはじめとした、文科省の監督する組織で働く人々との軋轢にもつながる。寺脇氏は小中学校、高校、大学と各レベルの学校組織と文科省がどのように付き合ってきたか、あるいはどのように付き合おうとしているかにも触れているが、紙数が少ないながら大学について述べている箇所では、教官たちの権威主義や保守性に苛立ちを募らせたのがうかがえる記述がある。文科省との人事交流が盛んな大学の事務方に対し、教官たちは事務方の提言や変革意欲を抑圧しようとする抵抗勢力――そんな構図が描かれる。動こうとしない教官たちを、どうやって動かすか。ときに寺脇氏やその同僚は厳しい言葉を使わざるをえなかった。そう、学会事務局を訪れたあのキャリア官僚と同じように「うるさかった」わけである。

 教官には真意を理解されなかったとしても、事務職員には気持ちが伝わる。よく国立大学の学長や教授から、あの人は厳しすぎるとの高等教育局幹部の人物評を聞かされたが、そんな幹部ほど事務職員からは信頼されていた。彼らにしてみれば、学内に君臨する教官たちに大学の抱える問題を直言できるのは本省幹部だけ、と頼みにする気持ちがあっただろう。(66)

 なるほどと思う。しかし、当然反論も出てくるだろう。教育とは本質的に保守的なものである。比較的年長であったり、比較的経験を積んでいたりする者が、比較的若年であったり、比較的未経験であったりする者に知識を伝授したり、思考法を教えたりするというのが、「教育」という思想の出発点にはある。そういう教育概念自体を否定する考え方もありうるだろうが、おそらくそこまで本気で踏みこむ覚悟のある人はそういない。(ほかならぬ寺脇氏の論調にも、明らかに経験に基づいた知識伝授という理屈は見られる。たとえば教育委員会の廃止をとなえる勢力に対しては「60余年にわたる教育委員会の歴史の中で蓄積されてきた経験や実績は雲散霧消してしまう」と反対しているのである)。

 そうである以上、教員たちに古いものや既存のものを尊重しようとする傾向があるのは仕方がないことではないだろうか。むろん、教育にしても研究にしても、ある段階になれば古いものを捨てたり乗り越えたりすることが必要になるが、古いものの実像を知らずにはそれを乗り越えることすらできない。だが、そうした文化の中にいる教員たちに対し、政策を提案し、制度をいじることで教育システムとかかわろうとする側は、じれったさを覚え文句も言う。こうして「うるささ」が発生してきたわけである。

 ともあれ、同じ大学で働く者でも、事務職員はそうした保守の文化からは多少なりと自由なはずだ、と寺脇氏は考える。そんな話の流れからもわかるように、本書はノンキャリアと呼ばれる一般事務職員の業務や職場環境についても多くの紙数を割いて記述している。文科省で実際に働いている多数派の人たちは何をしているのか、どうやって職員になるのか、どのような経歴をたどり、どのようなことにエネルギーを費やしているのかがタイミングよく挿入されるエピソードを通して浮かび上がってくる。

 本書を貫いてあるのは、「家族主義的な官庁としての文科省」という見方である。だからこそ寺脇氏は、どちらかというと華やかな場にいて脚光のあたるキャリア職員の業務だけでなく、ノンキャリアの人たちの仕事ぶりにも極力触れるようにした。日の当たるところにいる幹部だけでなく、粛々と仕事をこなす職員に目をやろうとする姿勢。このような視点は、かつて「三流官庁」と呼ばれ、伝統的に「草食系」が多いという文科省にエールを送る本書の姿勢とも重なってくる。ぎらぎらと野心的で、多少野蛮なことも平気でする経産省官僚などとはちがい、文科省の官僚はくそ真面目でおとなしく、でも誠実で手堅い。歴代大臣に対してはどんなに知識のない人でもきちんと敬意を払ってきた。それに何と言っても、あの田中眞紀子さんと仲良くできたのは、文科省の秘書官だけではないか!外務省の秘書官とは大違い!と。

 で、例の「スポ根」のことである。官庁の歴史を紐解いてみると、明治時代に文部省が発足した頃はカリスマ的な文化人大臣がつづいたこともあり、教育制度の根幹整備にあたって政策官庁としての機能が大いに発揮された。しかし、次第にその気概は失せ、やがて文部省は実質的に内務省に支配されるようになる。内務省で役に立たなかったやる気のない官僚達が文科省で幹部になるというルートもできる。「三流官庁」と呼ばれることになったのはその頃である。制度に対する口出しも許されず、すっかり「事業メンテナンス官庁」と化してしまった。役所全体として、何か新しいことをやろうとするよりは、すでにあるものにしがみつき守ろうとする気風に染まったのである。

 しかし、70年代から80年代にかけて文部省は変わる。行政改革の中で、事業拡大と予算の獲得を目指す旧来の「事業メンテナンス」の思考様式をあらため、政策を提案することに重きがおかれるようになると、文科省としてもあたらしい政策を提案する機会が増えてくる。そういう中にはうまくいったものもあれば、挫折したものもある。むろんスポークスマンだった寺脇氏を有名にしたあの「ゆとり教育」も、その一例である。まさに文科省の再生である。まじめで誠実だけれど不器用で鈍重だったカメが、ついに努力の甲斐あってウサギに追いつき追い越そうとしているというわけだ。まるで部員が九人しかいないどん底野球部が、家族的な雰囲気の中でついに甲子園に出場するまでを描く劇画のようなストーリーではないか。

 本書は文科省の職員に対する「エール」だという。たしかに最後の方は応援歌的で、とくに歴代大臣のヨイショがつづくくだりなどは「ん?」と思わないでもない。寺脇氏の私見やバイアスが透けて見えるところもある(氏の教育改革は、ひょっとすると「父殺し」の儀式だったのかと思わせる箇所さえある)。でも、そうでない情報も多数。大学独法化で通産省にまんまとしてやられたところをはじめ(108-109)、思わず釣り込まれるエピソードはあちこちにあり、とにかく読ませる本だ。

 政策重視への転換がほんとに教育という思想とかみ合うのかな?という疑念を持つ人は多いだろう。それぞれ個人商店意識の強い大学教員と、システムの力で全体を動かそうとする政策策定者の間には大きな意識の違いがあることがあらためて実感される。しかし、少なくともどのような構造が「うるさい伝説」を生んできたか読者が想像できるのはいいことだ。就活中の学生さんにもお薦めである。