『ある文人学者の肖像 ― 評伝・富士川英郎』富士川義之(新書館)
「父という謎」
運営者の紀伊國屋書店さんのご事情でまもなくこのサイトは閉鎖されるとのこと。評者の欄も少しずつ店じまいモードになるかと思う。これまで読んでくださった皆様、ありがとうございました。
今回とりあげるのはやや珍しい「評伝」である。評伝の対象は著者の実父。しかも父が自らの父――つまり著者にとっては祖父――について語った記述も出てくる。富士川家は游、英郎、義之、と代々続いた学者の家系なのである。
著者の富士川義之はワーズワスからラスキン、ペーター、ナボコフ、さらには現代作家や日本文学まで翻訳や研究を行ってきた英米文学者である。その父英郎はリルケやホフマンスタールなどドイツの詩人や、江戸漢詩の研究で知られた人。さらにその父の游は『日本医学史』などを著した医学史研究の大家だった。実は医業を営んでいた游の父の雪(すすぐ)もたいへん教養の深い人物だったようで、こうした家系を見渡すとほとんど宿命めいた富士川家の知との因縁を感じずにはいられない。
しかし、本書の眼目はこの知性あふれる一族の華々しい活躍や業績を描くことにあるわけではない。主に富士川英郎に焦点をあてながら、気むずかしい人だったというこの学者の家庭や職場での佇まい振る舞いを、最後までなかなか父に対し心を開けなかったという息子の目や、知人の証言をもとに解明しようとした一種の探求譚なのである。本書をつらぬいてあるのは、父という「謎」をめぐる息子の戸惑いや、反発や、拒絶であり、しかし、それが頁を追ううちに穏やかな理解や平安のようなものに変貌していくさまが感動的でもある。
おそらく字面に表れている以上に、著者にとって父親の存在は厄介なものだった。「父とわたし」と題された最終章には、こんな記述がある。
母のたっての希望もあって、わたしは結婚を契機に両親の家の庭の一部をつぶして、そこに小さな安普請の平屋を借金して建てたのだが、その家に住むようになってから、深夜まで仕事をしたあと、父の書斎から庭に漏れる明かりを覗きこむことがどういうわけか習慣になった。まだ明かりがついているのを見ると、もう少し頑張ろうかと、再び机に坐り直すこともたびたびあった。そうして明け方まで仕事をつづけることも少なくなかったのである。(三九六)
面と向かって厳しいことを言ったり、抑圧的な振る舞いをしたりということはそれほどなかったにせよ、著者の内面にはこのような形で父がしっかりと居座っていたのである。この本を書くことで、著者は悪魔払いめいたことをしようとしたのだろう。これまで語りえぬままにきたものを何とか言葉にしようとする様子もあちこちで見られる。しかし、にもかかわらず、最後まで語りつくせなかったものもあったようだ。呪縛はそう簡単にはとけない。
富士川英郎とはいったいどんな人だったのだろう。著者は、かつて父の生前にはなかなか頁をめくることできなかったというその著作をあらためて紐解き、また日記や友人たちとかわした私信なども参照しながら、少しずつその像を再構成していく。旧制高校生時代には萩原朔太郎に手紙を出して返事をもらうなど、大胆かつロマンティックなところのある文学青年でもあったが、物心ついた著者の目から見ると、父はいつも孤独で、どこか不機嫌そうだった。東京帝大を卒業後、岡山の旧制高校にドイツ語教師として赴任、しかし校長とそりがあわずに佐賀に「左遷」されるなどという事件もあった。
この時期のことは『思出の記』という英郎晩年の著書に詳しく描かれている。本書のなかにもいくつかその抜粋があるのだが、これが実にすばらしいのである。ここに引きたい部分はいくつもあるのだが、とりわけ印象に残ったものを一つ記そう。時期は戦中。ちょうど英郎が佐賀に赴任したころの記述である。
久留米はその前の日に空爆をうけ、全市が一面の焼野原となって、無事に残っている家は一軒もないような有様であったが、私はその余燼がまだ到るところでくすぶっていた街を通って久留米駅まで歩いて行った。そしてプラットフォームだけ焼け残っていた駅にたどり着いたときには、すでに日がとっぷりと暮れていたので、私はその夜をそこで明かすつもりで、プラットフォームに坐りこんでいたが、小一時間もそうしていると、「汽車が来た!」と誰かが叫ぶ声がした。はっとして起ちあがると、闇のなかから巨大な黒い獣かなんぞのように、一台の汽罐車が、空から見つけられるのを恐れて、すべての灯りを消したまま、煙突からも僅かあかりの煙を吐きだしながら、しゃわ、しゃわとゆっくり近づいてきたのであった。この汽罐車は数両の貨車を曳いていたが、これはもちろん客車の代用で、私はそこに居合わせた数人の人たちといっしょに、その暗い貨車に乗りこみ、ずっと起立したまま、佐賀に帰ってきた。(110)
富士川英郎とはこういう文章が書ける人だったのである。この一節を見ただけでも、その独特な世界とのかかわり方、距離感のようなものがよく伝わってくる。著者はそのあたり、次のような見方を披瀝している。
父にとって他者とか人間関係という問題はあまり興味もなく、大して現実感も持っていなかったのではなかろうか。これはたぶん他者や人間関係を描くことを基本とする小説に対してほとんど全く無関心であった理由のひとつだろう。現実や他者をとらえ、深く掘りさげ、記述することに専念する小説的思考に親しむといった形跡はほとんど見出せないからである。(409)
たしかにそうなのだろうと思う。このように世界との間に距離感を持つ人は、饐えたような匂いを放つ人間関係の網の目に首を突っ込んだりはしないのだろうなと思う。人間同士の汚れたかかわりあい方や、情念の絡み合いに興味を抱くというタイプの人ではなさそうだ。そのかわり、騒々しい箇所などは軽く飛び越えて、もっと人間の奥底の部分を鋭くとらえる目をもっていた人なのではないか。
英郎は、医業とかかわりの深い家系に育ったこともあり、語学教師をやりながら文学研究にふけっている自分を「おれは片輪だからな」と自嘲をこめて語ることが多かったという。リルケの研究ではかなりの業績は残しているものの、ドイツ文学研究から江戸漢詩の研究へと軸足を移してからの方がどこか満ち足りた風であったというのが著者の見解である。晩年には「やぐら」をめぐることを趣味にしていたという。「やぐら」とは鎌倉時代から足利時代にかけての武士の墓窟で、英郎の住んでいた鎌倉の山にはそれが数千は残っていた。それを日々徒歩でめぐり、いったいいくつあるのか勘定するのを日課としていた。著者は父のそんな「やぐらめぐり」の背後にあったのが、二重のノスタルジアだったのではないかと想像する。
「お塔やぐら」にいたるえも言われぬほど静寂なこの谷戸を歩いていると、「いつも涙がでるほどなつかしい」と言う。四、五十年前、関東大震災以前の鎌倉の山には、いたるところにこのような秘境があったことを想起するからである。「お塔やぐら」との出会いは、こうして中世だけでなく、失われた自分の過去との、自分の少年時代との結びつきを確かめさせずにはおかないものとなってゆく。(四二一)
本書は英郎の幼年時代から説き起こした本格的な評伝である。伝記ではなく評伝である。だから、英郎がリルケ研究に力を注いでいた時代を記述するとなれば、関連する概念や思想を丁寧に解き明かし、漢詩研究の時代に進めば、森鴎外や松本清張など参照しながら徹底的に漢詩人に付き合い、游をめぐる描写では医学史の問題にも果敢に踏みこむ。資料的価値も高い。しかし、その土台となるのはやはり著者と父との微妙な関係ではないかと思う。その部分があればこそ「父という謎」に私たちも共感する。他者に関心がなく、わずらわしい人間関係を超越した世界を逍遥していたとも思える父とは対照的に、息子はそうしたわずらわしい世界のわずらわしさと向き合い、父英郎をその中心に据えて人間の人間らしさを記述することに力を注いだ。そうか、こんな人がいたのだなあ、とその生々しい感触を筆者はたしかに読み取った。