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『ジブリの哲学—変わるものと変わらないもの』鈴木敏夫(岩波書店)

ジブリの哲学—変わるものと変わらないもの

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マイケル・ジャクソンが趣味だ」という知人がいます。「帰宅してビールを飲みながらマイケルの記事をチェックする。バード・ウォッチングならぬマイケル・ウォッチングをするのが好き」なのだそうです。なるほどなあと思いました。誰にもそういう人のひとりやふたり、いるのではないでしょうか? 私にもいます。それは宮崎駿です。

 はっきりと自覚したのは、本書『ジブリの哲学』を書店で手に取った時でした。我が家の食費三日分もするこの本を買うべきか買わざるべきか迷った時、私の中のハヤオ・ウォッチャーが叫んだのです。「この本には私の知らないハヤオがいる!」次の瞬間私はレジで会計を済ませていました。

 思った通り、この本には私の大好きなハヤオの姿がありました。私の好きなハヤオ。それは空中を浮遊する少女や、不思議な生き物が息づく森の創造主たる、ファンタジックな宮崎駿監督ではありません。世界を焼きつくす巨神兵やぶくぶくとふくれあがるカオナシを生み出した監督の内なるモンスターの方なのです。一瞬で燃えあがる怒り。誰も止められない行動(あるいは暴走)力。周囲を疲弊させるほどのこだわり。インタビューやドキュメンタリーで時折見せるそのモンスターぶりは私を強く惹きつけてやまないのです。

 しかしインタビューもドキュメンタリーも外部の人間が描いたもの。どうしても監督を美化して描こうとする意図がはたらいてしまいます。ところが身内である鈴木敏夫プロデューサーが描くハヤオの姿には容赦がありません。

 iモード。説明をした途端、彼はリサーチをはじめました。五〇人のアニメーター全員に質問。

「携帯、持ってる?」

iモードって知ってる?」

 しばらくすると、ぼくの部屋にやって来て、結果を教えてくれました。

 あいつとこいつとこれ、彼らに将来性はない。

 このご時世、会社にパソコンを導入しないわけにいきません。しかし監督は、ゲーム、パソコン、インターネット、iモードなどの新しい機器や機能を許しません。異常なまでの嫌悪感を示します。らしいといえばらしいですが、だからといって五十人の部下たちに「携帯、持ってる?」と聞いて回るその姿には少々異常なものがあります。私が部下だったら完全にひいているでしょう。

 そんな監督の意識を、鈴木プロデューサーは、母親が子どもの食事に嫌いな野菜をこっそり混ぜて入れるように、巧みな手腕で変えていきます。そう、監督がモンスターなら、鈴木プロデューサーはモンスター使い。『ジブリの哲学』は一見アニメのマーケティングについて書かれていながら、宮崎駿という天才をどのようにマネジメントしてきたか、その記録でもあるのです。

もののけ姫』というタイトルを『アシタカせっ記』に変更したいと、宮さんがぼくにいってきたのは、たしか九五年の冬に入ったころだった。(中略)

 こういうときの宮さんは強引だ。自分の着想に自信があるので、説得(?)のために、あることないことをまくしたてる。(中略)

 さて、タイトルをどうするか。ぼくに迷いのあるはずはなかった。堂々と『もののけ姫』を世間に公表した。だれにも相談せずに。

 宮さんがそのことを知ったのは年明けだった。勢い込んで、こういってきた。

「鈴木さん、『もののけ姫』のタイトル出しちゃったんですか?」

 仕事をしていたぼくは、おもむろに顔をあげると、何事もなかったように、静かな声で「出しました」と告げた。

 本書では、監督の台詞が「タイトル出しちゃったんですか?」と淡々と書かれています。しかしテレビで鈴木プロデューサーが同じエピソードを語った時は、「だ、だ、出しちゃったんですか?」と口調を正確に再現していました。「だ、だ、だ」とつんのめるように三回繰り返すハヤオ。「出しました」と静かな声で言われ、この件についてはいっさい口をつぐんだハヤオ。まるで、アシタカに矢を射られ鎮められてしまったタタリ神のようで、何とも愛らしいではないですか。さすが鈴木プロデューサーです。私はこの本を買ってよかったと心から満足しました。

 私が次に期待している語り手は、息子の宮崎吾郎氏です。吾郎氏に相対するときのハヤオは尋常ではありません。彼の辞書に「親馬鹿」の文字なし。海原雄山のように行く手に立ちはだかり容赦なく叩きつぶそうとします。それに立ち向かわなければならない宿命を負った吾郎氏がモンスター・ハヤオをどう語るのか。まだ語るべき時は来ていないと思いますが、その時がきたら是非読んでみたいと思っています。鈴木プロデューサーにもまた本を出してもらいたいです。頼みましたよ!

 


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