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『寺山修司と生きて』田中未知(新書館)

寺山修司と生きて

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[劇評家の作業日誌](29)

この夏、当書評ブログで取り上げた二人の著者が亡くなった。一人は、劇作家で演出家の太田省吾さん。『なにもかもなくしてみる』(第13回)という不思議なタイトルを持つ演劇エッセイ集の著者である。もう一人は『思想としての全共闘』(第19回)小阪修平さん。団塊世代の重要な発言者の一人だ。太田氏は六十七歳、小阪氏は六十歳だった。まだまだこれから一花も二花も咲かせようとしていた現役バリバリだっただけに本当に悔やまれてならない。慎んでご冥福を祈りたい。

(太田氏に関しては「毎日新聞」7月25日付に追悼文を書かせてもらった。また「シアターアーツ」32号(9月20日発行予定)で「太田省吾の仕事」および「太田省吾・語録」を掲載予定である。)

他にも身近な演劇人の訃報があり、今さらながら7、8月というのは、「死」を意識させられる季節のようだ。8月15日の終戦敗戦記念日が日本人の心の中に「死」を想起させる言霊があるのかもしれない。

今回とりあげる寺山修司もすでに没して23年になる。『寺山修司と生きて』は題名とは裏腹に、「死」と向かい合った、ちょっと胸が痛くなるような著書だ。著者の田中未知氏は、寺山修司晩年の秘書を務め、最期を見取った、公私ともども最も身近なパートナーだった。カルメン・マキで大ヒットした「時には母のない子のように」の作曲家として知られ、天井桟敷の舞台では照明も担当した。寺山の身辺の仕事に忙殺されなければ、多方面で才能をもっと開花させたろう。

この本の構成は、2部ないし3部に分かれる。前半の一、二章は、寺山修司の「芸術家」として創作の方法、天井桟敷での演劇活動が記述されているので、これまで出されてきた多くの寺山修司論とさほど変わるところはない。けれども、三章以降になると、突然、私的ドキュメントの色が強まり、この著者でなければ語れない記述になっている。それが胸を締め付けるのだ。

例えば、第三章の「母地獄」。このタイトルもすでに凄まじいが、母・寺山はつの知られざるエピソードがこれでもかこれでもかと語られる。とくに死の直前まで、母の言葉に悩まされ、怯えていた寺山の姿が描かれ、母と子の尋常ならざる関係が「地獄絵」のように記述されている。この母はつだけで悠に一冊の本が書けるくらい(著者は即座に「数冊!」と言うだろう)エピソードに事欠かない女性なのだ。周囲の者がどれだけ彼女に気を遣い、理不尽な言動に苦しめられてきたか。その後遺症だろうか、著者は寺山の死後、いっさいの消息を断って、逃げるようにオランダに移住してしまった。

しかしさらに凄いのは、死を間近にした寺山の病床の記述である。第四章の「病気を生きる」、第六章の「寺山修司の死」。本書のタイトルにあるように、寺山修司「と生きて」の後半部の焦眉がここにある。すぐれた芸術家であり文学者であった寺山修司。だが彼の私生活は案外脆く、ナイーブなまでに他人に気をかけ、心配りする常識的な側面も持っていた。普通に病気を怖れ、死に恐怖し、それでも「仕事」に邁進してしまう典型的なワーカーホリック。それが彼の場合、芸術や表現といった特殊な世界に関わっていただけで、ごく一般の中年男性の生きざまと、なんら変わるところはない。だが彼の周辺は日々是れ激動の毎日だった。

本書でもっとも鬼気迫るのは、寺山修司の死は果たして「芸術家の死」なのか否か、というところだろう。例えば、晩年に庭瀬康二という医師と出会った。彼はいわゆる先進的な医療を追求し、文学や芸術も分かる稀な医師だった。その彼と詩人の谷川俊太郎、九条映子(現・今日子)の三者の鼎談「死はフィクションになりうるか」が「現代詩手帳」の寺山修司特集号(83年11月号)に掲載された。この鼎談をめぐって、ほぼ一章分(第五章)費やされている。

そこでの骨子はこうだ。「死」を間近にした寺山に「死とは何か」といった文学的な意味を問い詰める医師の態度。それは「文学者」として「死」に直面させることで最後の時間を充実させたいと考える医師と、それはもはや担当主治医の領分を超えているのだろうという著者の疑念である。たしかに寺山は稀有な芸術家であった。けれども、同時に彼は瀕死の重病人でもある。彼を一日でも長く生き延びさせてやりたいと思い、体力に負担のかかる劇団活動や映画製作を極力減らしたいと著者は心を鬼にしてスタッフたちと闘った。そのため彼女は映画の撮影仲間の間で「ストッパー未知」と揶揄されたほどである。なのに、一介の医師が周囲がびっくりするくらい寺山を文学的問答で問い詰めている!

もう一つこの鼎談で衝撃的なのは、寺山への誤診を庭瀬自らが暴露していることだ。寺山を奪われた無念の思いがいっそう憎しみを増幅させたのだろう。2003年、庭瀬医師が亡くなったことを知り、彼女は長年蓄めていた複雑な思い、蟠りを一挙に吐き出すのである。確かに、23年という歳月は、当時の心の痛みを和らげるというより、事実を公表する覚悟に要した時間だったのだろう。今なお著者の心はいささかも癒されていない。あの時逃げるように去った日本に、短期間でも帰国する勇気を得たにすぎない。この間、著者は一貫して、あらゆる誹謗、中傷から寺山を擁護する。心ない発言、勝手な憶測、寺山を利用して自説を展開する厚顔無恥。身近にいればいるほど、そんなことが気にかかってしまう。著者でなければ決して書けなかったというのは、そういうことだ。

もっともこうした当事者の側からなされた言い分は、ややもすれば故人を囲い込みがちになる。敵と味方を必要以上に峻別し、いたずらに両者の境界線を引いてしまう側面がないわけではない。だから、ここで書かれたことは過剰反応ではないか、という箇所もなくはなかった。

私はほとんど自分の時間さえ持たずに寺山に尽くしてきた。尽くしてきたなどと恩着せがましい言葉で言いたくはないが、ほとんど自分を捨てて寺山といっしょに生きてきたと言えるくらいだ。(253頁)

この言葉にウソはなかろう。だから北里大学の医師の「寺山修司も十年もったらいいほうだろう」(263頁)という発言に、十年経って、健康を維持している寺山ともども一喜一憂するのである。

「死」と介護する周囲の関係。それは有名無名を問わず、さまざまな家庭で現在起こっている現実だ。十代で不治の病に罹り、死がつねに間近にあった寺山修司の生は、最期の日を数えながら生き延びる人生だった。彼の最後の詩「墓場まで何マイル」はそれを謳ったものだ。

「死」との息詰まる攻防戦のなかでほっと息をつかせてくれるのは、寺山をめぐる女性たちとの関係だった。著者は寺山最愛のパートナーでありながら、寺山が他の女性と付き合うことを許容した。寺山が束の間でも平穏な気持ちになれたら、と考えたからだ。通常ではありえない、男女の関係を超えた「寺山共同体」である。ブレヒトも彼を取り巻く女性関係が賑やかで、しかも彼の創作になくてはならない女性たちであり、共同者だった。寺山修司という芸術家もまた無数の共同者を得て、初めて集合名詞としての「寺山修司」たりえていたのであろう。

本書は、実名が頻繁に出てくるため差し障りがあるのではと思いつつ、それが実名で書けるくらい寺山修司の「死」は遠くなり歴史の一部になったのだと確認させられた。

昨日、紀伊國屋ホール高取英脚本・演出の『寺山修司 過激なる疾走』を見た。高取氏は平凡社新書で同名の評伝を刊行しているが、いわば初めての「評伝劇」である。寺山の個人史をたどったこの舞台は、50~60年代の少年寺山とともに、貧しかった「昭和の日本」が蘇ってくる。さらに演劇活動がメインになってくる60~70年代には、「激動期の闘争・日本」を背景に、「家出のすすめ」でアジテートした寺山自身がその舞台に登場する。つくづく、寺山は「時代の児」だったことを思い知らされた。病床にあった晩年の寺山は、過去の記憶を巻き戻しながら、彼自身をレトロスペクティブ(回顧)する。寺山修司を語ることは、もはや時代のレトロなのだろうか。そんな思いを抱きながら、わたしは劇場を後にした。

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