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『寺山修司に愛された女優――演劇実験室◎天井桟敷の名華・新高けい子伝』山田勝仁(河出書房新社)

寺山修司に愛された女優――演劇実験室◎天井桟敷の名華・新高けい子伝

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「<劇評家の作業日誌>(53)」

 寺山修司は生きている。本書を読み終えて、最初に感じたのはこのことだった。


 もちろんこの本は、寺山修司を主役として書かれたものではない。「演劇実験室◎天井桟敷」の主演女優であり、劇団の名華だった新高けい子(旧・恵子)についての評伝を軸にした読み物である。したがって焦点が当たるのは、あくまで新高自身であり、寺山は彼女を表舞台で輝かせてきた一演出家にすぎないのだ。にもかかわらずわたしには、二十七年前に亡くなった寺山が、今なお生きているように感じられた。

 タイトルになった「寺山修司に愛された女優」はいささか誤解を招く表題で、実際寺山と新高が愛情関係にあったわけではなかろう。むしろ寺山は一人の女性としてより、一種の崇拝に近い目で、同志としての彼女を見ていたのではないだろうか。

 新高と寺山の奇しき縁をたどった第一章~第三章は、同じ青森県出身者の紆余曲折を経て、再び同じ仕事場で再会するプロセスが描かれて興味深い。二人は同じ青森高校に在籍し、新高は学年で寺山より一年上であった。けれども、二人は高校時代に知己を得ていたわけではない。新高は俳句などで活躍していた寺山の名前を知っていただけである。

 新高は上京してから、さまざまな職を経て、大蔵映画というピンク映画の女優になった。その彼女を寺山はスクリーン上で見て、ぞっこん惚れこんだ。いかにも寺山らしいエピソードだ。彼は小まめに小さなカルチャーにも目を配っていたのだ。

 後年、寺山は天井桟敷“旗揚げ公演”にさいして、新高に招待券を送った。二人は意気投合した。それぞれ十二分に人生経験を積んだ後の“再会”だった。

 寺山の元妻の九条映子(現・今日子)もまた元松竹の映画スターだった。寺山は映画監督の篠田正浩に彼女に会わせてくれるならシナリオを書いてもいいよ、と積極的にアプローチを試み、まんまと九条と知り合い、結婚にこぎつけた。一方、寺山は新高には一歩退いたところで接していたように思われる。同じ女優でありながら、九条と新高とではどこか隔たりがあったのだろう。

 新高には他人を寄せ付けない高雅な品格が具わっていた。わたしは七〇年代半ばから天井桟敷の舞台を観てきたが、彼女の演技には何か高貴なものを感じた。だが意外なことに、本書によれば、けい子(著者はもっぱら名前で呼ぶ)は庶民的で気さくな、劇団の「お母さん」役だったと記している。海外公演に行くと、けい子の部屋はさながら臨時の日本食堂となって、お粥や梅干など、家庭の香りをたたえていたという。舞台の上からでは決して見えてこない女優の別面だ。ここらあたりが、現役の新聞記者である著者の取材力であろう。

 新高についての記述で興味深いのは、寺山の死後、多くの団員たちは演劇活動を再開したにもかかわらず、彼女だけは一線を退いたことだ。寺山に演出してもらえなかったら、彼女にとって、それはもはや演劇ではなかったのである。

 寺山の死後、天井桟敷は解散し、多くの団員たちはJ・A・シーザー(現・シィーザー)を中心に「演劇実験室◎万有引力」を結成し、寺山作品の上演は続行された。『奴婢訓』や『観客席』など代表作も再演されたが、寺山不在の舞台はかつてのコピーに過ぎず、どこか虚しいものを感じたのは、わたしだけではあるまい。むしろ寺山がいなくなったことの寂しさを痛感させられることの方が多かった。

 現代演劇では亡くなった演出家の名を冠した舞台が上演されることはしばしばある。すでに一つのフォルムとして定着した舞台は、見逃した若い観客や外国からの客のために“名作”としてロングランされる。たしかに舞台に生命を吹き込むのは俳優であり、演出家の仕事はその手前で消えてしまう補助線でしかない。にもかかわらず、演出家の生きたまなざしが消えた舞台には、抜け殻的な空虚感がただよう。寺山はそんな演出家だった。

 寺山は俳優として決して舞台に上がらなかった。つねに舞台の脇から俳優たちに視線を放ち続けた。その寺山の肉体も含めて、天井桟敷の舞台なのである。この伴走者というプレイヤーがいなくなれば、視線を浴びていた俳優たちの緊張は解(ほど)け、弛緩したものになることは避けられない。寺山作品とは、伴走者の視線を操り糸とした一回性の出来事に他ならなかったのである。

 演劇とはつねに再現、反復されるものである。と同時に、舞台は一回性の出来事でもある。この両義性において、寺山修司とはつねに問題提起的な存在だった。

 新高けい子は寺山の視線を浴び続けた女優である。それは他の俳優に比べて明らかに特別な存在だった。寺山の視線は彼女の肉体に内在化され、両者は相互に触発されるエネルギーによって、舞台上に「新高けい子」を出現させてきた。それを深く自覚していた新高にとって、寺山の代役はありえなかった。二人目の寺山は存在しようがなかったと言えよう。

 芝居のテーマを語るラストシーンは、ほとんど新高のセリフで締め括られた。だが初日の間際まで、最後のシーンが書き上げられなくて、本番の直前に寺山から生原稿を渡され、それを必死に覚えて、初日を乗り切ったことが幾度となくあった。しかしそれは、寺山はどこか新高ならそれがやれるという信頼感があったように思われる。演出家と女優の特別の絆である。新高が潔いほどあっさりと女優業を辞めた理由は、この絆が二度と再び結びえないという確信があったからだろう。

 一時代を築いたスターには三つのタイプがある。スター性を失ってもなお過去の栄光を引きづり続ける者、年齢にふさわしくまった別の路線に進む者、そして新高がそうであるように、完全に表舞台から去ってしまう者。新高は現役の姿を世人の前にさらすことはない。その彼女にインタビューの機会をかちとって本書の刊行に漕ぎ着けた著者・山田勝仁のジャーナリスト根性は見上げたものである。

 先日、寺山修司作『星の王子さま』の舞台を観た(演出=金守珍、プロジェクトNYX)。そこでわたしは、カルメン・マキのライブステージに遭遇した。寺山修司作詞の「時には母のない子のように」をもって十九歳で鮮烈に歌手デビューした彼女もまた還暦を過ぎた。同じく寺山作詞の曲を彼女は歌った。

 「♪野・に・咲く・花・の・名前・は・知らなーい♪」という一説が彼女の口から零れてきたとき、わたしは思わず胸を突かれた。言うまでもなく、寺山修司作詞「戦争を知らない」の冒頭である。高校生の頃、いやというほど耳にしたこの歌を久しぶりに聞いたとき、当時の記憶が甦り、思いが逆流してきた。舞台というライブには、現在の中に過去の時間を想起させ、想い出させる機能が備わっていたのだ。ということは、死者もまた甦るということだ。作者の寺山の肉体はもうない。けれども、四十年前にこの詞を書いた寺山は今、カルメン・マキの肉体に乗って眼前に甦り、舞台に相変わらず視線を放っているのだ。

 寺山が生きていると感じたのは、この視線をこの時・この場で察知できたからであろう。芸術の力とは、現実では起こりえないことを想像上で体験させることである。寺山はつねに現実を固定したものではなく、つくりつつ壊すものとして提起してきた。今とは一瞬であり、つねに過去へと押し流されていく。今をつなぎとめておくことは不可能に近い。死者と生者の境はほんの一跨ぎにすぎないのだ。彼が残した有名な一説が思い起こされる。

 「百年たったら帰っておいで」。

 本書を読むと、寺山同様、新高けい子もまた記憶の残像として、帰ってきたのである。


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