『いわいさんちへようこそ!』岩井俊雄(紀伊國屋書店)
「「子どもと遊ぶこと」へのレッスン」
ちいさな女の子が、窓辺でほおづえをついている。すぐ前にはぼうぼうと延びたミニトマト。結わえられた手製のウエルカム・ボードが風に揺れると、そこが「いわいさんち」だ。
「いわいさん」とは、いわずと知れた著名メディアアーティスト岩井俊雄さんである。女の子はその愛娘ロカちゃん。あなたが本書を手にとりページを繰りはじめたならば、岩井さんとロカちゃんの「一緒に考えたおもちゃや新しい遊び」がつぎからつぎへと躍りでてくるのに出くわし、まずおどろき、ついでワクワクとした気持ちが湧きあがってくるのに気がつくことだろう。
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この書物の身上はその豊潤さにある。
豊潤さは端的に、この本がいろいろな読み方を許していることに現れている。なによりも最初にあげられるべきなのは、父娘が生みだしたおもちゃ群のすばらしさだ。ボール紙と足割りピンでできた自在人形「リベットくん」。箸袋の卓上船に、中川李枝子の名作「くじらとり」(『いやいやえん』所収)を彷彿とさせる段ボール製の巨大船。「いわいさんち」の日々の出来事を空想の世界に置き換えて描く父娘交換式の「空想絵日記」などなど。そのどれもが、温かなユーモアと縦横に駆ける想像力と独創的な鋭さに支えられており、事物の根源的なたのしさをストレートに感じさせてくれる。
紹介されているおもちゃはすべて父娘の手製。紙のカードやビニールシート、端材といった手触りのある素材を縦横に活用しているが、ハイテクなものはなにひとつとしてつかっていない。だからこの本は、メディアアーティスト岩井俊雄の隠されたもうひとつの側面に光をあて、アーティストとしての岩井さんをより深く理解するための手だてを提供している書物だということもできる。
子育て論ないし教育論として読むこともできる。岩井さん自身の記すところによれば、初めのうちは娘とどう付きあえばいいのかわからず、父親としての自信がもてなかった。だが、なにか父親として魅力あるところをロカちゃんに見せたい。そこでおもいたったのが、一緒におもちゃを手作りすることや、新しい遊びをつくりだすことだった。おもちゃ商品を買い与えたり、遊園地につれていったり、といった消費行動で子どもの歓心を買おうとするのではなく、その逆を実践したのだ。いまや岩井さん父娘は、自宅といわず買物先といわず旅先といわず、どこへ行くにも紙や色鉛筆やハサミを持参する。なんと素敵な父親ではないか。ぼくのまわりの女性たちは一様にこの本に感嘆していた。同じく父親でもあるぼくとしては、この本をなるべく家族に見つかりにくい書棚に隠しておきたいとおもったほどだ(あいにく、たちまち子どもに見つけられてしまったけど。あ、ちなみにぼくのところは男の子ばかりの三兄弟だから、まるで状況が異なります)。
さらにいえば、『エル・デコ』あたりの読者ならば、一種のおしゃれなライフスタイル論としても読むことができるかもしれないが、きりがないからこのあたりにしておく。
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この豊饒さの源泉はどこにあるのか。岩井さんのもつ天賦の才だけですべてを説明してしまっても仕方ない。おそらくは、それは「遊び」ということに関係している。三点あげよう。
第一のそれは、遊びと身体の関係である。本書には、想像力の立ち現れる瞬間が刻印されている。想像力とはなにか。哲学的な小難しい定義はともかくとして、わかりやすくいえば、あるものと別のあるものを媒介して結びつける心的なはたらきのことだ。心的な、ということからなのか、想像力はしばしば頭のなかにひらめく観念的な閃光と捉えられている。だがそれは違う。想像力は、観念や言葉の問題という以前に、身体の問題なのである。目に前に、あるいは手のなかにあるモノを、通常それとはまったく無関係と考えられている別のものに結びつけていく刹那。それこそが想像力が発動する瞬間にほかならない。モノをつくるという身体行為は、それ自体の核心に遊戯性があるのであり、遊びは本質的になにかをつくることと関係している。岩井さん父娘は、まさにこの核心に忠実なのである。
第二点もまた、遊びの本質にかかわっている。たとえば、「どっちがへん?」という遊びだ。2枚のカードにほとんど同じ図柄の絵──風船をもった男の子、というように──を描く。片方では、男の子の手に握られたひもの先で、風船がふわふわと宙に浮いている。もう片方では、天を向いたひもの下にある巨大な風船を男の子が両手をいっぱいにひろげて受けとめている。この2枚のカードを同時に見せて、どっちが変かを当てる、というゲームである。「どっちがへん〜♪どっちがへん〜♪どっちがへんへんへん〜♪」とうたいながら見せる。歌までつくっているのである。答えがわかったあとでも、ロカちゃんは何度やっても喜ぶそうだが、そりゃそうだろうなあ。
「子どもにとって繰りかえしがあそびの基本であり、「もう一度」というときがいちばん幸福な状態である」と述べたのはベンヤミンだ。だれもが経験的にそのとおりだとうなづくだろう。さらにベンヤミンは、こうつづける。「「かのようにふるまう」のではなく、「繰りかえしやる」こと。このうえなく心を揺さぶる経験が習慣へと転じること。それがあそびの本質である」(『教育としての遊び』丘澤静也訳、晶文社)。
身体化された身ごなし、すなわち習慣の根幹をなすものが遊びである。このベンヤミンの指摘は重要だ。と同時に、それを揺るがすものもまた遊びである。そのことを、岩井さん父娘は身をもって示してくれている。経験を習慣に封じ込めていくことと、それをズラして組み換えていくこと。二つの背反する方向性が、「遊び」のなかで実現されうるのである。
「くり返しやる」ことは、第三の点にも関係している。先述したベンヤミンのエッセイから引用をつづけよう。「おなじことを繰り返す、これが、そもそも共同ではないか」。共同性とは、すなわち父娘が「一緒に」という点にかかわっている。
父娘の組合せでなくても、父が母に、娘が息子に置き換わっても差し支えない。要点は父が娘を「遊んであげ」たり「教えてあげ」たりするのではなく、両者が一緒に遊ぶことにある。遊びをとおしてロカちゃんは成長する。それだけでなく、岩井さんもまた多くのことに気づき、成長していく。それはつまり、ロカちゃんとの遊びをとおして岩井さん自身がみずからを「父」として再編成していくプロセスである。そのさいに参照されるのが、自身の子ども時代であり、ご両親など家族との当時の関係である。大工さんである義父に自宅を建ててもらう決意をするのもまた、この一環と見ることができる。このときロカちゃんは、岩井さんと御両親との関係が編みなおされる鍵を握るメディアとなっている。父と娘、そしてそのまわりの人びとを、「つくること=遊ぶこと」を軸とした実践コミュニティと理解することができる。このことは、家族という関係を、血縁関係という視点からだけではなく、実践コミュニティとして捉えなおしていく可能性を示しているともいえるだろう。
最後に触れておきたいのが、こうした豊潤さの林床となっているのが、「いわいさんち」という「場」であることだ。あらゆるコミュニティはなんらかの「場」において成立する。その意味で、岩井さん父娘の営みを生みだし、かつ包摂するのは、「いわいさんち」なのである。ここでいう「うち」とは、物理的な自宅建物それ自体が直接担保できるものではなく、戸籍や婚姻制度のような社会制度に単純に還元されるべきものでもない。それは、そのひとの存在が、さしあたっては根っこからまるごと肯定されていると信じることのできる「場」のことである。そこにはすべてがあり、しかし局所のみを弁別的にとりだすことが、まだできない。イメージとしていえば、それらは、発生を開始する寸前の卵のような比喩で語ることができるかもしれない。「うち」という「場」は総合的である。「うち」は、揺籃であり、宇宙なのだ。本書には何点か岩井さんの自宅の写真が掲載されており、そのいずれもがきわめて象徴的に登場する。このことは、こうした文脈において示唆的である。
そしてこの本は、「いわいさんち」という「うち」の宇宙を体現するかのように、造本されている。本書はしたがって、内容的にも形式的にも、「いわいさんち」の宇宙そのものだといえるかもしれない。本書に接するときぼくたちは、かつて本は宇宙であると考えられていた時代の残滓が、思いがけない形で浮上してきたさまを見出すであろう。本書が「いわいさんちへようこそ!」というタイトルをもつことは、だから必然なのである。