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『金閣寺』三島由紀夫(新潮文庫)

金閣寺

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「なぜ「生きよう」と思うのか」

 パリに住んでいると、必然的に「美」とは何か、ということを意識させられる。美しいものが多いのである。石の街並も美しい、ノートルダムも美しい(特に後姿が)、夜景も美しい、街行く人の姿も美しい、そして長年住んでいても、常に新しい美の発見がある。

 だが時として、日本的美がないのが寂しくもなる。それは木の柔らかさに繋がる。トトロの森のような原風景であったり、京都、奈良の寺社仏閣に使われている古びた木であったりする。優しいのである。石は美しくとも、人を拒絶する冷たさと隣り合っている。かつて饗庭孝男『石と光の思想』で指摘したように。

 美を想う時、いつも心に引っかかるのが、「金閣寺」は美しかったのだろうか、ということだ。もちろん今も金閣寺は存在するが、戦後まもなく林養賢によって焼かれている。それを題材にしたのが三島由紀夫の『金閣寺』である。

 三島は常に青年にとって魅力的であるようだ。『金閣寺』を授業で扱うと、「難しい」、「面白い」という言葉が必ず返ってくる。一部の生徒は「三島病」に罹り、彼の他の作品を読み漁り始める。難解と言う生徒も多いが、詳しく解説していくと、結構興味を持つ。

 主人公の溝口は美に憑かれた存在だ。それは彼が醜いからだ。彼は吃音を持ち、そのせいで自己と他者をつなぐ扉の鍵が錆びついていると考えている。自分が醜いゆえに美を求める。最初は有為子という女性が対象となるが、彼女は恋人を裏切る形で死んでいく。

 次の溝口の標的が金閣寺だ。父に聞かされた心象の金閣と、嘱目の金閣とが重なり、最高の美を顕現する。さらに戦火により金閣寺と心中できる可能性が高まることにより、溝口の期待は最高潮に達する。だが金閣寺は焼けなかった。

 金閣寺の住職になり美を支配しようとするものの、それも不可能になる。ここに柏木という大学の同級生が出現する。柏木は「認識」を大切にし、溝口は「行為」へ進もうとする。ここが面白く、難しいところだ。私たちは目の前に壁が立ちふさがった時にどうするだろうか。壁に対する認識を変えて精神的に乗り越えるか、それとも壁を物理的に排除しようとするか。

 最終的に溝口は行為を実現する、つまり金閣寺を焼くが、その時に「ぎりぎりまで行為を模倣しようとする認識もある」と考える。これは三島の葛藤そのものではないだろうか。三島は作品の最後で、溝口に「生きよう」と思わせる。はたしてこれは三島の本意だったのだろうか。ここで溝口が生きていけるならば、金閣寺は何だったのだろう。物理的金閣が焼失した事によって、溝口の金閣は消え去ったのか。内界と外界の扉の鍵は開いたのか。

 金閣を焼く前までは、溝口は三島の好む悪魔的存在として成長していった。だが、焼いた後のこの弛緩は何だろう。あまりにも人間的過ぎる。もちろん溝口も人間だったと考えるのは容易い。しかし、それはこの作品の価値を高めはしない。

 夏目漱石の『門』において、宗助は門の前に佇み、前に進むことも後戻りもできなかった。明治という時代と漱石が作り出した、近代的知識人の典型的姿である。しかし、三島の主人公たちは佇まない。破滅に向かって進むか、少なくともその予感の中に幕を閉じるはずだ。

 三島はインドに行き、人生観が変わったと言っていた。そして『豊饒の海』を遺して旅立った。この作品のラストでは、輪廻転生していった主人公の存在そのものが問われている。『金閣寺』から『豊饒の海』にかけて、三島の何が変わったのだろう。その大きなヒントが、溝口のラストシーンに隠されているような気がしてならない。


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