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『三島由紀夫 幻の遺作を読む』 井上隆史 (光文社新書)

三島由紀夫 幻の遺作を読む

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 著者の井上隆史氏は三島由紀夫の遺稿を保存する山中湖文学の森三島由紀夫文学館の研究員で、「幻の遺作」とは副題に「もう一つの『豊饒の海』」とあるように、同館が収蔵する創作ノートと草稿の研究から想定された『豊饒の海』の別の結末である。

 『豊饒の海』は輪廻転生の物語だが、生涯の最期をこういう作品で締めくくったからといって三島が生まれ変わりを信じていたと考える人はいないだろう。20歳で夭折しては転生する人物を主人公にすえたのは昭和の御代をまるごととらえるための大がかりな趣向であって、随所で披瀝される唯識説は趣向をもっともらしく見せるための飾りだというあたりが大方の受けとり方ではないか(わたしもそう考えていた)。

 ところが本書によるとそうではないらしいのである。三島は生まれ変わりは信じていなかったにしても輪廻を救済と見なし、輪廻のメカニズムを説明する唯識説にも大真面目にとりくんでいたというのだ。

 三島がはじめて輪廻に言及したのは思いのほか早く、昭和20年5月25日に執筆した「夜告げ鳥」という詩においてである。20歳の三島はこう書く。

今何かある、輪廻への愛を避けて。

それは海底の草叢が酷烈な夏を希ふに似たが

知りたまへ わたくしを襲うた偶然ゆゑ

不当なばかりそれは正当な不倫なほど操高いのぞみだ、と

さように歌ひ、夜告げ鳥は命じた

蝶の死を死ぬことに飽け、やさしきものよ

輪廻の、身にあまる誉れのなかに

現象のやうに死ね 蝶よ

 詩は「蝶の死を死ぬこと」から訣別し輪廻を願えと呼びかけるが、ここでいう「蝶の死」とは三島が熱愛していた伊東静雄の「八月の石にすがりて」という詩を踏まえている。

 伊東の詩は「八月の石にすがりて/さち多き蝶ぞ、いま、息たゆる」と蝶のはかない死を讃美し、それこそが「運命」だと歌いあげる。いかにも日本浪曼派的な悽愴美であり、処女作の「花ざかりの森」で惑溺していた世界でもあるが、20歳になった三島はそのような美に甘んじることなく、はかない美の背後に想定される永遠の輪廻にむかえと歌う。

 なぜ三島は日本浪曼派の世界に訣別し、輪廻の思想にすがったのだろうか。

 著者は詩の書かれた昭和20年5月25日という日付が鍵だという。入隊検査で肺浸潤と「誤診」されて出征をまぬがれた三島は神奈川県の海軍高座工廠に徴用されていたが、24日未明に自宅のあった松濤が爆撃されたと知り急遽帰宅した。その時に瓦礫と化した東京を見た衝撃が日本浪曼派的な美を色褪せさせてしまったのではないかと推定し、『暁の寺』で本多が目にする焼け野原こそその時の記憶だという。

 三島にとって輪廻とは全的な破滅を「現象」として相対化してくれる永遠の視点であり、そのような視点を獲得することが救済となるというわけだ。

 救済としての輪廻という思想は「夜告げ鳥」の直後に草した「二千六百五年に於ける詩論」(皇紀2605年は昭和20年)ではより一層明確に語られている。

運命観の最高のものたる輪廻は、永遠と現存とを結ぶ環でもあるが、無数の小輪廻は個々人の裡にめぐりつゝ、相接する歯車の如く宇宙の大輪廻へと繋がります。即ち詩人は個人の小さき歯車の中でも特殊な歯車の持主といふべく、自我内の永遠から唐突が仕方で宇宙的永遠に連なる一方、この大小の永遠の間を、軽業師の身軽さと手妻使ひの気易さ、総て超自然の模倣者たる矜りを以て自由に往来するのであります。神人交通が詩人に於てほど容易になされる例はありません。詩人は輪廻を愛する人であります。

 輪廻が救済だという発想は仏教本来の考え方とは真逆である。仏教では生まれ変わり死に変わる輪廻を苦と見なし、輪廻からの脱却をはかる。解脱とはもう生まれ変わってこない状態のことである。仏教にはそもそも永遠の救済という発想はなく、阿弥陀仏に救いとってもらうのも修行のできる環境に生まれ変わって、現世でかなわなかった解脱をとげるためだ。もはや生まれ変わらず、消えてなくなることが仏教の最終目標なのである。

 20歳の三島は輪廻思想を誤解していたが、戦後作家として登り坂の間は輪廻への憧憬が表面化することはなかった。事実『仮面の告白』にも『金閣寺』、『潮騒』にも輪廻は登場しない。

 しかし『鏡子の家』の失敗と、それにつづく『宴のあと』裁判、深沢七郎の「風流夢譚」事件への関与、さらに文学座の分裂騒動が三島に中年の危機をもたらした。はたから見ると『からっ風野郎』で若尾文子と共演したり、ボディビルに凝って写真集『薔薇刑』を出したりと華やかな生活を送っているようだったが、実際は深刻なスランプにおちいり、三島がもともともっていた世界崩壊感覚を深刻にしたというのだ。

 この危機にあたって焼趾の廃墟で20歳の時にすがった輪廻=救済という発想が甦えり、『豊饒の海』四部作の構想に発展したというのが本書の骨子である。

 仏教的には輪廻が救済になるという考えは誤解以外のなにものでもないが、そもそも輪廻は救済になるのだろうか。生まれ変わり死に変わる永遠の生命などというものを持ちだしたら、今ここで生きている自分はかりそめの現象にすぎなくなり、むしろ虚無に突き落とされるのではないか。勲が清顕の生まれ変わりだと気がついた本多は「精神の氷結」から甦えるような歓びを覚えた反面、「ひとたび人間の再生の可能性がほのめかされると、この世のもつとも切実な悲しみも、たちまちそのまことらしさとみづみづしさを喪つて、枯葉のやうに落ち散るのが感じられた。……中略……それは、考へやうによつては、死よりも怖しいものであつた」と戦慄している。輪廻による救済は虚無と紙一重であり、この宙吊り状態が本多を、あるいは三島を輪廻の理論である唯識説研究に向かわせた。

 唯識説は中観派の空観とならぶ大乗仏教の二大潮流の一つであるが、一切を空とする中観派に対し、現象の世界を顕現させる阿頼耶識の存在を認めており、阿頼耶識が輪廻の主体だと考える。阿頼耶識によって三島の世界崩壊感覚は解決されるはずだったが、著者が明らかにしたところによると三島が依拠した唯識説はわれわれが概説書など接することができる唯識説とはかなり違ったものである。

 教理史的にいえば唯識説は説一切有部の三世実有説(荒っぽく要約すると事物は原子が仮に寄り集まったもので無常だが、原子そのものは過去・現在・未来にわたって実在するという考え方)を現在においてのみ実在すると修正した経量部から発展した思想で、心(識)の存在を現在においてはさしあたり認めており、一切を否定する中観派と鋭く対立していた。

 ところがアサンガの『攝大乘論』を漢訳して最初に中国に唯識説をもたらした真諦は心がさしあたり存在するということは存在しないことと同じだとし、唯識説を中観派の空観に近く解釈していた。この立場を摂論宗という。

 その後インド留学からもどった玄奘三蔵唯識経典を新たに訳し直し、その新訳にもとづいて法相宗がたてられる。摂論宗法相宗に圧倒され衰退したが、三島が学んだ唯識説は主流の法相宗ではなく、摂論宗唯識説だった。

 法相宗では阿頼耶識はそれ自体に悟りの種子を含んでおり、半ば汚れ半ば無垢な真妄和合識ととらえるのに対し、摂論宗では阿頼耶識はあくまで妄識にすぎず、悟りの要因は外から依りついているだけだと考える。三島は唯識説に救済を求めながら、よりによってニヒリスティックな摂論宗の立場にのめりこんでいくのである。

 三島は『曉の寺』において空襲で焼死体の転がる渋谷の焼趾を前に本多にこう述懐させている。

 ――これこそは今正に、本多の五感に与へられた世界だつた。戦争中、十分な貯へにたよつて、気に入つた仕事しか引受けず、もつぱら余暇を充ててきた輪廻転生の研究がこのとき本多の心には、正にかうした焼趾を顕現させるために企てられたもののやうに思ひなされた。破壊者は彼自身だつたのだ

 『豊饒の海』の第三作で三島は救済から虚無へと舵を切った。最終作では虚無から救済へと反転し大団円を迎えるのだろうか。

 大団円どころかより救いのない虚無へ落下していくことをわれわれは知っているが、著者は創作ノートを検討した結果、『天人五衰』とは別のプランが構想されていた時期があったことを明らかにした。それが副題でいうところの「もう一つの『豊饒の海』」である。

 最後の章では著者はいろいろな時期の創作ノートを切り貼りし、ありえたかもしれないハッピーエンドを再構成しようとしている。ハッピーエンドで幕を閉じていれば『豊饒の海』は『失われた時を求めて』や『ユリシーズ』に匹敵する全体小説になったかもしれないというが、その構想は三島自身によって否定され、むしろ「世界崩壊の究極の形」として完結することになった。結局著者はこう結論する。

 『天人五衰』において『春の雪』にまで遡ってすべてを虚無で覆い尽くそうとしたのと同様に、三島はその文学活動の最後に、自分の作家的アイデンティティを確立させた『仮面の告白』まで遡り、その後の創作活動のすべてを解体し、虚無へと導いたのである。

 『天人五衰』は失敗作だと思っていたが、こういう見方もありうるわけである。今度読みかえしてみよう。

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