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『おくりびと』百瀬しのぶ(小学館文庫)

おくりびと

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「死の風景」

 小説を映画化するのは難しい。というより、小説を映画化し、先に小説を読んでいた読者を、映画が満足させることは非常に困難だ。もちろん、映画史を振り返ってみれば、小説から映画化された作品でも名作は存在する。それでも、作品を読んでから映画を観て、作品以上に感動したことは滅多にない。安部公房の『砂の女』でさえ、そうだった。文芸作品の映画化「としては」素晴らしい、と思っただけだった。

 これは多分に創造力の問題であるだろう。小説を読む時に、読者は想像の翼を広げ、自分の可能な範囲で小説の世界を構築する。上手な作者であれば、読者の想像は個人差が減るかもしれないが、それでも全く同じ世界で登場人物たちを動かすことは不可能だ。故に、自分が作りあげた世界と、映画化された世界の違いが、不満足を生む。時には、違った考え方を見せられて大いに感心することもあるが、違和感は残る。

 だが、今回不思議な経験をした。映画が先にあり、それをノベライズした作品を読んだのだ。映画はまだ観ていないが、映画を小説化した作品を読んだ。アメリカでアカデミー賞外国語映画賞を受賞した『おくりびと』である。偶然知人が置いていったものだが、手持ち無沙汰に読んでみると、非常に面白かった。

 楽団のチェロ弾きから納棺師への転身という設定も奇抜で面白いが、普段聞き慣れぬ「納棺師」という言葉に興味が引かれる。亡くなった人の遺体を美しく仕上げ、納棺するまでの過程を担当する仕事だ。「納棺師」というのは聞き慣れない語だが、一応Wikipediaによると、1954年の青函連絡船洞爺丸の沈没事故をきっかけに、札幌納棺協会が葬儀ビジネスとして使い始めた造語らしい。

 主人公は楽団が解散し失業した事によって、心機一転を図るために、妻と共に山形の実家へ戻る事にする。母が残してくれた家で新たな生活を始めながら、再就職先を探す。新聞の求人欄で条件の良い所を探し、面接に訪れたのが、納棺を仕事とする会社だった。給料の良さと社長の人柄のせいで、断ることもできず、しかし妻に打ち明けるわけにも行かず、納棺師見習いを始めてしまう。

 ここまではユーモラスなホームドラマ風の流れなのだが、仕事が始まるとそれは一転する。遺体を扱うという仕事の大変さ、昔の同級生からの非難、仕事の内容を知った妻の出奔と苦労は重なり、それを背景にして、主人公は死の形について考えを深めてゆく。死者との日常は正者との日常を再認識させる。親しい人の死により、その人の人生が自分に染み渡ってくる。

 しばらくして妻は戻ってきて、二人の子供が生まれる事を告げる。また、小さい頃に主人公と母を捨てていった父親の「納棺」を担当する事にもなる。ここには死と生が決して両極の存在ではなく、あくまでも「日常」のものであるという現実が顕在化している。かつて谷川俊太郎は、現代は死を見失っているがために生の意味も見失いがちだと指摘したが、『おくりびと』は死を私たちの元に引き寄せる事によってこそ、生もまた近づいてくれるという、この世の摂理を示しているようだ。


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