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『赤目四十八瀧心中未遂』車谷長吉(文春文庫)

赤目四十八瀧心中未遂

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金玉が歌い出した男

 なぜかこれまで縁がなかった作家が車谷長吉。さいきん、車谷を読みなさいと勧めてくださる方がまわりに何人もいて、さて、なにから読んだらいいのだろうと題名を見ると、「鹽壺の匙」「業柱抱き」「白痴群」「錢金について」「贋世捨人」「忌中」「飆風」「文士の生魑魅」といった、なにやらおどろおどろしい題名ばかりである。鹽壺飆風生魑魅などと並べてみたらまるでコンピュータの文字化けみたいだ。


 見当がつかないので、まず、直木賞受賞作『赤目四十八瀧心中未遂』を手に取った。のだが、そもそも、この題名、なんて読むのか、どこで切れるのか。赤目四十八瀧というのが三重県にある名所の名前であるとはこの本を読むまで知らなかった。小説では、主人公の生島与一と、ヤクザ者の兄を持ち、刺青の彫物師の愛人となっているアヤちゃんとが、心中をしようと訪れる場所として設定されている。

 生島は、大学出のインテリだったのに、サラリーマンとしての生き方のぬるさに苛立つようにして会社員をやめ、庶民のなかで、まるで自分を苛めるかのように禁欲的で孤独な生活を送ろうとする男だ。のちに、その生島の部屋へ突然やってきて、「炎の氷がきしむように崩れ落ち」て、激しいセックスをすることになるアヤちゃんは、生島と同じアパートの住む女性で、彫り物師の愛人である。そんな怖い人の女に手を出したらいかん。そう思えば思うほど、死に魅入られるかのようにして、極楽鳥の彫り物をした在日朝鮮人(という設定なのだ)の美女であるアヤちゃんと畜生のごとき性交を行い、ついに生島は彼女と心中までしようと決心する。心のなかの暗がりに感応してくるというのか、読んでいて血が暗く騒ぐような小説だ。

 「赤目四十八瀧」の地名の話に戻ると、心中未遂の場所としてこの地を選んだのには車谷の慎重な計算がある。「赤目」は、まずは、アヤちゃんの男の白目に混じっている「赤」だ。横恋慕しようものならタダでは済まないことを知っている主人公には、この彫物師の目がすごく怖い。それから、この彫物師、休日になると、カミソリを指に挟み、それを鶏に向かってぴゅっと飛ばして、鶏の目を潰すという趣味を持っている。目が赤く染まるのだ。いっぽう、「四十八」にも意味がありそうだ。主人公・生島とアヤちゃんが初めて激しいセックスをするシーンでは五度射精をしたとある。四十八という言葉は性交体位四十八手をも微かに連想させる、というのは邪推だろうか。

 題名からしてこうであるから、作品本体にいたっては、夥しいほどの、血と性と死のイメージが散りばめられている。生島が生業としているのは来る日も来る日も暑くて狭い部屋で黙々と臓物に串を「刺す」作業であるし、ひしゃげた蝦蟇蛙のエピソードは死を、アヤちゃんがお皿いっぱいに入れて持ってくるサクランボを生島が「食べて」しまうのは、生島がいずれアヤちゃんを犯すことになるであろうことを予測させる。作品は、思いのほか精緻に出来ていて、車谷という作家は、つくづく手練れの作家という印象をもった。(こういうタイプの小説をどこかで読んだことがあると思ったら、筆者にとっても意外なことに、宮本輝、だった。)

 この小説でいいのは脇役たちである。たぶん、主役より脇役がいい。生島のところに臓物を運んでくる無口の男の不気味な感じが印象に残るし、なによりも、主人公の生島を雇っている、パンパン上がりで、年のころ、60のセイ子ねえさんが秀逸だと思った。このオバサン、すごい迫力だ。生島に仕事の要領を教えるときのシーン。

女主人は天井から下がった傘電球のスイッチを捻って、あしたからこの部屋で牛と豚のモツ肉をどうさばくかということを説明しはじめた。が、その途中でふっと、

 「あ、こななことは実地に言わな。」

と言葉を切り、不意に私の手をにぎった。

 「あんた、可愛いらしいな。」

 咄嗟に私は手を引いた。ぞっと背筋に寒気が走った。(中略)女は「あはは。」と磊落な声で笑い、

 「あんた、気が腐るほど真面目な人や。」

と言った。真面目、という言葉が押ピンの針のように、私の心を刺した。

この女の前で、生島はまるでヘビに睨まれて射竦められているカエル同然である。「押ピンの針」という言い方、じつにうまい。

 セイ子ねえさんにかかれば、生島の心の動きなどまるでお見通しで、生島がどうやらアヤちゃんに気を引かれているらしいことをすぐに察知して、「あの子はやめとけ」と釘を刺し、その後、どうやら、二人が出来てしまったことを感ずると、

「あんた、アヤちゃんに気があるんやな。」

「えッ。」

「何やいな、そなな声出して。ええ男が涎垂らすような声出しな。みっともない。」

「いや、別に私は……。」

「まあまあ、ええ。あんたの腐れ金玉が歌歌いよるが。」

と言い放つ。

 「えッ。」という短い一言に「涎垂らすような声」をセイ子ねえさんは聞く。そして、彼女にとって、生島の生と性への渇きなんてものは、「金玉が歌い出す」ようなことにすぎないのだ。ただただお馬鹿な男の欲望が、えへらえへらと体から浮かれ出てしまうような、そんな男だと生島は断じられているのである。

 セイ子ねえさんという脇役を置いたこと、「腐れ金玉」という絶妙な言葉を吐かせたことをもって、筆者はこの作品を高く評価したいと思う。以下、その話をもう少ししたい。

 

 この小説は異界めぐりの構造を持っている。小説冒頭、生島は東京で鬱々とした生活を送っている。そして回想シーンということで、このような心中未遂にいたるまでの顛末が語られるが、生島は、ソープに売られてしまうであろうアヤちゃんとは添い遂げることはなく、東京へと舞い戻ってくる。アヤちゃんが「在日」であるというのは、異界性を強調するエピソードでもあろう。考えてみれば、生島はずいぶん身勝手な男である。ヤクザみたいな男の愛人にびくびくしながら手を出して、やりたいだけやって、最後は女のほうからうまい具合に手を切ってくれるわけだ。男にしたら悪くない体験である。

 こういう小説は日本にはけっこう先例がある。鴎外の「舞姫」や川端の「伊豆の踊子」を思い浮かべてほしい。留学先や旅先という異界で美女と出会い恋愛し、女たちの将来はほったらかしにしたまま、「東京」へ舞い戻るというストーリーだ。「捨てたくなかったのに捨ててしまった」というオトコの感傷が作品の抒情を保証する。

 

 車谷のこの小説は、これらの文豪の作品とは決定的に違う。たしかに、生島は、「腐れ金玉が歌い出す」ような美女とやるだけやって、そのあと、うまいことに、アヤちゃんとつながっているところの極道の世界から手を引き、東京での生活に舞い戻った。しかし、作品に抒情は漂わない。生島は、東京へ舞い戻ったとき、このセイ子ねえさんのことを何度も思い出していたに違いないからだ。陋巷へと降りていって彷徨したインテリの生島は、当初、ほんの少し、オレは特別だという反転した特権意識をもっていたと思う。しかし、そこで待っていたセイ子ねえさんは、生島の生と性を身ぐるみ剥いでしまうのだ。生島の意気地のなさも、薄っぺらな絶望も、犯罪のお先棒をちょっとかつがされただけでビビりまくっている臆病さも、みんなこの女に知り尽くされている。えらそうなこと言っていても、所詮、あんたはただの男で、アヤちゃんとのことも、「腐れ金玉」が歌いだしただけのこと、とセイ子ねえさんは言っているのだ。この言葉には、恐るべき諧謔がある。そして、この諧謔によって、小説は明るくなるのではない。むしろ、人間の生はますます暗く、そして陰惨になる。

 

 生島は、心中もまっとうできない男。そして、おめおめと東京へ戻った男。その自覚があるから、生島は作品の冒頭で、あのように鬱々とするしかないのだ。かつて武田泰淳は名作『司馬遷』の冒頭を、「司馬遷は生き恥さらした男である」という一文で始めたが、生島はさしずめ「腐れ金玉が歌い出してしまった男である」。

 この作品は、すでに映画になっていると聞いた。金玉が歌い出すような美女であるアヤちゃんを演じるのは、寺島しのぶ。失礼ながらイメージが違う。でも、セイ子ねえさんのほうは大楠道代である。小説を読んでいるときは絵沢萌子あたりを想像していたが、たしかに大楠のほうがいい。「腐れ金玉が歌歌い出す」という台詞は、映画でも残っているだろうか。


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