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『酒肴酒(さけさかなさけ)』吉田健一(光文社文庫)

酒肴酒(さけさかなさけ)

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「酒仙のエスプリ」

近年これほど痛快かつ爽快な本を読んだことはない。吉田健一吉田茂の息子であり、そのおかげで幼少期よりイギリス、フランス、中国等で暮らしている。当時としては珍しく、和食以外のものを詳しく知っていた。ケンブリッジ大学で学んだ秀才でもあるが、そんな事はどうでも良くなってくるほど、このエッセイは面白いし、酒好きにはたまらない魅力に充ちている。

 『酒肴酒(さけさかなさけ)』と題するだけあって、中身は酒と肴の話ばかりだ。しかし、一体誰が次のような事を堂々と書けるだろうか。長崎で卓袱料理を食べて酒を飲んでいる時「食べながら飲むという、食いしんぼうで飲み助であるすべての健全な人間の理想を嫌でも実現することになる」、中華料理屋で美味しいお菓子を見つけ「この晶蘇というビスケットなどは、魯迅のどんな作品よりもうまかった」、フランス料理とワインを合わせながら「酒を飲む分には途中で必要な時間だけ眠ることさえ出来れば際限無く飲んでいられるが、食べものの方はそういつまでも食べていられなくて」と言うのである。

 ワインと日本酒を比較し、ワインは食事と一緒が良いので、それほど長くは飲んでいられないが、日本酒は「一日でも二日でも、眠くなるまで飲める」と結論づける。しかし、「葡萄酒もいいのに当たると、飲むだけではなくて風呂桶をこれで波々と満して頭から浴びたくなる。」と言う。私も毎晩ワインを飲んでいるが、さすがにこのような想像はしたことがない。ワインはブルゴーニュが好きだと言い、シャブリを例に挙げている。そして、そう時間をかけて飲むものではないから、一人に「大壜二本」もあれば良いという。どうも、一般人と単位が違うようだ。

 故に、旅館に入ると「寸暇を惜しんでビールを持って来てくれるように頼む」のだ。なぜなら、酒はお燗をするのに時間がかかるからだ! カクテルパーティで一番上手な飲み方は、「カクテルを飲まない」ことである。う~ん、当たっているような気がする。バーを評して「バーにあるものが人生だなどと、勿論、誰も思ってはいない。バーや飲み屋にはそんなものよりももっと貴重な酒があって、人生の方は我々がどこへ行っても、いやでもついて来る。」。首肯。

 新潟でたらば蟹を食べて「鋏の中の肉と胸の所の肉には月に照らされた湖の水面の涼しさ」があり、「川魚は一体に海の魚よりも女の感じがする」という。至る所に個性とエスプリが充ちているエッセイだ。もちろん、海外でのエピソードも多い。イギリス、フランス、アメリカ、中国での飲み歩きも非常に楽しい。余りにも面白いので、時々朗読して妻に聞かせたら「これを聴いているとアル中になってもかまわないという気がしてくるね」などと恐ろしい一言を漏らした。

 この作品のただ一つの欠点は、仕事中や昼休みに読めないことだ。何と言っても、読んでいると、酒を飲みたくなってしまうのである。それも今すぐに。なんとも危険なエッセイである。


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