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プロの読み手による書評ブログ

『北海道の旅』串田孫一(平凡社ライブラリー)

北海道の旅

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「自然と同化する旅」

 日本人がヨーロッパを旅行する時「ユーレイルパス」という、一定期間鉄道乗り放題のパスが買える。ヨーロッパ在住の日本人はそれを買えない代わりに、国際結婚をしているか、永住権を持っていれば「ジャパンレールパス」というものが買える。一週間または二週間、JRが乗り放題(一部の列車を除く)となる。

 昨夏そのパスを使い、私の出身地である北海道を二週間回った。有効に活用するために、一日で網走から稚内へ行ったり、稚内から函館へ行ったりした。時間はかかるが、汽車の旅は好きなので、苦ではなかった。各地方で自然とも多少は触れ合い、北海道の夏を満喫した…つもりだった。しかし、串田孫一の『北海道の旅』を読むと、幼い頃の北海道の風景と香りが蘇って来ると共に、自分は北海道の本物の自然とは大人になってから触れ合っていないのではないだろうかと、考えさせられた。

 串田の旅は1962年の事だから、私は小学生である。夏休みは毎日トンボ、チョウチョ、キリギリス、クモ等の昆虫採りに夢中で、子供なりに自然と触れ合っていた。その頃の北海道を串田は気ままに旅していたのだ。山登りの準備をしておきながらも、いつどの山に登るかなど明確な事は決めていない。俗化した場所は避けて、登りたくなった所に登る。そして「漂泊の楽しみを密かに味う者には、自分の周囲に物語を空想するのがまたちょっとした悦びなのかも知れない。」などと空想に耽っている。

 彼は珍しく今回の旅で道連れとなる青年に、有珠岳の頂上で出会う。18歳の朝倉君だ。一人旅を好む串田は「たとえ途中で友人に会って」も「わざわざ同じ旅館に泊まるようにしたこともないくらい」なのに、何故かこの青年と旅を共にすることになる。見た事感じた事等を友人に書き送った手紙と、自分のための備忘録をまとめたのが『北海道の旅』だ。

 大きな出来事は無い。ザックをかついでの気ままな旅故に、高級旅館に泊まる事も無く、贅沢な食事をすることもない。バスを数時間待つ間にその町を歩き回り、登った山で出会った鳥、植物、風景などが描かれる。だが、夕食に一杯のコーヒーがついて喜ぶ時に、私たちにもコーヒー(もちろん高級なコーヒーでは無いだろう)の素晴しい香りが漂ってくる。バスに乗っても汽車に乗っても、あまり居眠りもせず、車窓から広がる風景に目を凝らし、スケッチをする。大げさな感情表現を抑えた文章である故に、串田の静かな喜怒哀楽に私たちもそっと寄り添うことができる。彼はそれを独占せずに、私たちの参加を許してくれるのだ。

 それでも時として、感情が抑えきれない場面もある。十勝岳の頂上についた瞬間一本の杭を発見する。「第十普通科連隊重迫中隊登山記念、三六、九、四」これを見て「悦びのあるはずの、この二〇七七メートルの山頂の気分が、このためにだいなしにされてしまった。」と考える。ノシャップ岬で土地の人に「米軍が引き上げてくれて、あの灯台のある台地を歩けるようになったら、また私は必ず来ます」と言うと「米軍が引き上げても、自衛隊は引き上げないから同じことだ」と言われたエピソードも載せる。

 

 串田の人となりが理解できるシーンだが、幸福の欠片も想像できない、厳しい冬場に見た侘しい漁師の家を春に再び見て「旅人としての私は、このようにして春の陽をうけている彼らの家を外側から見て、言わば気やすめをしたかったのです。」と、細かな思いやりを見せる。自然を愛する者は、他者への思いやりが豊かだ。

 串田は何故旅に出るのか。そこには「生活の風化」という思いがあるようだ。「心の中にどうでもいいというような塵がたまりはじめて、それを拭い去る術もなく、たとえそういう機会があっても怠ってしまうと、人間は内部から風化し、それと同時にその人の生活もまた風化をはじめるというようなことがきっとある」鋭い指摘だ。忙しくて旅に出る暇がなかなか無くとも、このようなエッセイを通して旅の情趣を味わい、心の風化を避けることは、日々を新鮮に送るための有効な方法であるに違いない。


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